「ホトトギスと鐘の声」に想うことをつらつらと ─後編─

2021/06/18

「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色 盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらわす。」この有名な語り出しで始まるのは「平家物語」。平清盛の生涯ではなく、平氏の栄華と没落までを描いた物語です。多少の脚色はあるものの、要所要所で出演してくる多才な主人公に、人情に惹き込まれてしまう見事なまでの生き生きとした語り口。この物語の後半「以仁王の挙兵」は失敗に終わりましたが、これによって始まった治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の乱、そう源平合戦の火蓋が切って落とされました。平家物語は、史実を鑑みながら多少の脚色がされ、後世にまで語り継がれる「平家の栄枯盛衰物語」に仕上がっています。個性豊かに描かれた登場人物に惹き込まれる、感情移入してしまい涙腺がゆるむ、そして大いに考えさせられる壮大な物語。平清盛が主人公ではなく、あくまでも平家の栄華を築いた一人として描かれ、清盛の死後に平家が転落の道を歩んでゆく様を読み取ることができます。平清盛の跡を継いだ宗盛(むねもり)と、サポート役に徹した知盛(とももり)、この平家一門を支えた清盛の息子たちです。1183年、源義仲の進行を受けた宗盛たちは、安徳天皇と建礼門院を奉じて、平家一門を率いて都落ちをします。九州、瀬戸内海を転々とし、一時は兵庫県神戸市の、清盛が遷都を画策した「福原」まで盛り返したものの、義経軍の猛攻に遭い、軍事拠点であった「一ノ谷」を失い、そして香川県の「屋島」に築いた御所も追われました。西へ西へと向かう中で、平氏は下関の彦島に陣を張り、源氏を迎え撃たんとします。時は1185年、ついに「壇ノ浦の戦い」を迎えることになります。
皆様のご存知の通り。平家終焉を迎えることになる、壇ノ浦の戦いが、どのようなものだったのか。潮流が勝敗を左右したともいわれていますが、定かではありません。序盤は海戦を得意とする平氏が有利に戦いを進めるも、時の趨勢は源氏を選びました。そこには、歴史に翻弄された人々の人間ドラマがあったようです。

平家物語の中では、「壇ノ浦の戦い」を迎える際に、平知盛が不安材料を無くすため、怪しい動きのある畠山重能(しげよし)の処分を主張するも、重鎮であるがゆえに総大将である平宗盛は許しません。結果、壇ノ浦の戦いにて、重能が裏切ることで、源氏方に平氏の作戦が筒抜けになることになります。都落ちの際にも、知盛は京都で源義仲を迎え撃つことを主張するも、宗盛は一族討ち死にの危険性を回避すべく、さらに京都を流血の惨事に巻き込まないことを望み、京都を離れます。
知盛の冷徹な分析力と積極性のある行動力。対して、宗盛の凡庸さに判断力の甘さと受動性が、対照的に描かれています。知盛が弟ゆえに補佐役であったことで、類まれなる彼の指導力が発揮されませんでした。そして、宗盛の無能さが平家滅亡を早めたのだと語られています。
「壇ノ浦の戦い」の勝敗は決し、敗北を確信した平知盛は、罪作りな殺傷は控えよとの下知を飛ばします。平教盛(のりもり)と経盛(つねもり)兄弟は、平清盛の弟たちで平家を支えてきた重鎮です。二人は碇(いかり)を背負い、手を組んで入水しました。能の「碇潜(いかりかづき)」や、歌舞伎や文楽の「義経千本桜」で、知盛が海に飛び込むときの装いです。その原型が、この兄弟の入水場面にありました。この平教盛の息子である教経(のりつね)は、平家の中でも一二を争う剛の武将、せめて源氏の実質的な指揮官でもあった源義経に一矢報いようと、義経の船に乗り込み詰め寄ります。しかし、ひょいひょいと舟を移り渡り、すでに八艘先へ。これが世にいう「義経の八艘跳び」です。にじみ出る悔しさを隠し、両脇に源氏の兵士を抱えたまま教経も入水します。
3
≪新中納言知盛卿、小舟に乗って御所の御舟(おんふね)に参り、「世のなかは今はかうと見えて候。見苦しからん物共、みな海へいれさせ給へ」とて、艫舳(ともへ)にはしりまはり、掃いたりのごうたり、塵拾ひ、手づから掃除せられけり。≫戦いに破れしも、平家一門の「心意気」と武人としての「潔さ」が、この行動をとらせたのでしょうか。
≪女房達、「中納言殿、いくさはいかにやいかに」と口々に問い給へば、「めづらしきあづま男をこそ御覧ぜられ候はんずらめ」とて、からからとわらひ給へば、「なんでうのただいまのたはぶれぞや」とて、声々にをめきさけび給ひけり。≫ 知盛は、無意味な慰めの言葉などは語らず、ただただ現実を伝えるのみ。二位尼(にいのあま)時子(清盛の妻、建礼門院徳子の母、安徳天皇の祖母)は全てを悟り、満7歳になる安徳天皇にこう語りかけたといいます。
今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下にも みやこありとは

「今だからこそ知りましょう。この身も御裳濯川(みもすそがわ)のある、伊勢平氏の御嫡流であることを。この波の下にも、あなたがお治めになる都がございます」と。伊勢神宮の神域に流れる五十鈴川(いすずがわ)の別名が御裳濯川(みもすそがわ)。今滅びゆく平氏一門は、五十鈴川に縁の深い伊勢平氏です。二位の尼時子は、安徳天皇を抱き、三種の神器の剣と神璽(しんじ)を身につけて入水します。そして、安徳天皇の母である建礼門院徳子も後に続きます。
≪新中納言、「見るべき程の事は見つ。いまは自害せん」とて、めのと子の伊賀平内左衛門家長を召して、「いかに、約束はたがふまじきか」と宣えば、「子細にや及び候」と、中納言に鎧二領着せ奉り、我身も鎧二領着て、手をとりくんで海へぞ入りにける。≫ ここに治承・寿永の乱最後の合戦となった「壇之浦の戦い」が終わりを迎え、栄華を極めた平家一門が滅亡へと向かうことになります。
4
壇ノ浦の海岸沿いに「みもすそ川公園」があります。この公園の下を通り、壇ノ浦へ流れ込む小さな川には、「御裳川(みもすそがわ)」と名がついています。伊勢神宮の御裳濯川とは、漢字一字が違いますが、同じ読み方。この公園には、源義経と平知盛の2体の像ここに飾られています。
ひらりと身をひるがえし船から船へと飛び移る義経と、碇を担ぎ、義経を無念極まりない目で追う知盛。二人がこのように対峙したかはわかりません。平家物語を見るに、知盛の聡明さは、怒りにまかせて碇を担いで義経と対峙するとは考えられません。平教盛と経盛が碇(いかり)を背負い、手を組んで入水する。教盛の息子である教経が義経を追い続けるも断念を余儀なくされ海へと沈む。知盛も鎧を2領身にまとい、乳兄弟となる平家長とともに海へ入って行ったのだと平家物語は教えてくれる。この知盛像は、平氏の無念の想いを一手に担い体現された姿なのでしょう。
5
下関の唐戸市場にほど近い、阿弥陀寺町。名前の示す通り、「阿弥陀寺」が、彼の地に存在していました。江戸時代までは「安徳天皇御影堂」と呼ばれ、壇ノ浦で入水した安徳天皇を仏式に祀(まつ)られ、今でも安徳天皇阿弥陀寺陵(あみだじのみささぎ)を見ることができます。
さらに、ここには壇ノ浦で敗れた平家一門の合祀墓があり、二位尼時子をはじめ、知盛はもちろん、教盛と経盛、そして教経と名を連ねます。その中に「盛」の付く名前が7つあるため、「七盛塚」と名付けられ祀られています。

6
この阿弥陀寺、残念ながら今はその名は地名のみ。明治政府が神道を国家統合の基幹と定め、神仏分離を画策したことで、過激な「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の動きが活発化しました。そのため、阿弥陀寺は廃されることなるも、安徳天皇を祀っているからこそ、下関に残したい。そう切望する地元の人々が存続を可能としたのでしょう、神社へと変貌を遂げることで「赤間神宮」として存続することとなります。その際に建立された神門は、見事なまでに人目を惹く美しい姿、まさに竜宮城を想わせます。「波の下の都」をお治めしている安徳天皇を偲び、建立されたようで、安徳天皇が水天宮の祭神として祀られていることから「水天門」と名付けられたようです。
7
さて、平家物語は壇ノ浦の戦いが最後ではありません。平家の武将たちの最後が語られ、最後は建礼門院徳子の一期(いちご)を終えるところで、この物語は終わりを迎えます。前述したように、安徳天皇と二位の尼時子が入水するのを見届け、安徳天皇の母である彼女も後に続きました。しかし、源氏の兵士に引き上げられ、一命をとりとめたのです。生け捕りの20人ほどの男共と40人ほどの女房たちは京都へ送られ、男共には厳しい沙汰が下されるも、女房は皆が無罪放免となります。しかし、もとの絢爛豪華な生活など望めるわけはなく、隠棲し粛々と時を過ごすことになります。愛する我が子を目の前で失いながら、なぜ建礼門院徳子は、自害せずに余生をまっとうしたのか。
当時、権謀術策うずまく宮廷内において、言われなき嫌疑がかけられ処刑された者、謀反を企て身を亡ぼす者、時代が時代だけに、戦(いくさ)によって命を落とす者も多かったことでしょう。男共は間違いなく短命だったはずです。そこで、残される女房たちには、先だった男共の菩提を弔い、極楽浄土へと導かなくてはならなかったのだといいます。勝手気ままに先立つ男共のなんとも身勝手な言い分か。それでは、残された女房自身は自らの弔いを誰に託せばよいのか?自ら仏に祈り願い続けることでのみ、極楽浄土へいけるのだと。
建礼門院徳子が全てを失った時、自害したほうがよほど楽だったような気がいたします。しかし、彼女はしなかった。二位尼時子が入水する時に、平家一門の菩提の弔いを託したからという話もあります。

彼女が実際にはどのような考えだったのか、まったく分かりません。ただ、平家物語の中の彼女は、死を覚悟しながら自害する勇気がなかったわけではなく、愛する我が子である安徳天皇をはじめ、平家一門の菩提を弔わんがために、生きながらえたのだと思うのです。
隠棲の中で、仏門に入り、祈りを捧げる日々。平家物語の終巻では、後白河法皇が大原寂光院の建礼門院徳子を訪問する「大原御幸(ぎょこう)」の場面を迎えます。彼女は法皇に「六道の沙汰」を涙ながらに説きました。自分の辿ってきた生涯を、生きながら平家の栄華から滅亡までの六道輪廻(天上・人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄)になぞらえて振り返ってみせたのです。≪さるほどに寂光院の鐘の声≫が日暮れを知らせ、法皇は還幸(かんこう)されました。想いのたけを語れたことで安堵したのか、はたまた古き良き時を懐かしんだのか、涙にくれながら仏様の前で祈りを捧げていた時、山不如帰(ヤマホトトギス)が奏でながら寂光院を飛び去った、そしてこう詠んだのだといいます。
いざさらば 涙くらべん ほととぎす 我も浮き世に 音をのみぞなく  建礼門院徳子
8
平家の栄華盛衰を、数々の人間ドラマを通して描いたこの物語は、今なお多くの人々に共感を与え、考えさせられ、色褪せることはありません。そして、建礼門院徳子が最後に六道輪廻を後白河法皇に語る内容が、この物語の総集編ともいうべきもの。そして最後に「ホトトギス」。
この鳥の初音を耳にする時期は田植えの時期にあり、急げ急げとそのタイミング教える鳥ということで「時鳥」として親しまれています。この物語では、時鳥ではなく別の漢字「不如帰」と書き記しています。「不如帰」は「帰ることができない」という意味。物語の最後で、建礼門院徳子は皆様に問いかけている気がいたします。
「祇園精舎の鐘の声」から始まった平家物語は、「寂光院の鐘の声」で終わりを迎えました。源平合戦とは、以仁王の挙兵に端を発し、建礼門院徳子の薨御(こうぎょ)をもって終わったのかもしれません。ともすると、源頼政のホトトギスは「時鳥」であり、建礼門院のホトトギスは「不如帰」であるといえる。今もどこかで「さやかな」声音を響かせている…この声の主は「時鳥」なのか、それとも「不如帰」なのでしょうか?