「ホトトギスと鐘の声」に想うことをつらつらと ─前編─

2021/06/11

一声は さやかに鳴きて ほととぎす 雲路(くもぢ)はるかに 遠ざかるなり  源頼政(よりまさ)

「ホトトギス」、名前は知っているも、どんな鳥でどんな鳴き声なのか?
昨今のインターネットとはなんとも便利なもので、この鳥を検索すると出るわ出るわ、これでもかと。姿・鳴き声も動画で楽しめます。これほど多くの方が投稿しているということは、やはり多くの人が捜し求め、出会った時の感動を共有したいという証なのでしょう。和歌の世界に幾度となく登場し、我々日本人に馴染みの鳥でありながら、今ではなかなか耳目に触れることがありません。
気象庁が実施している「生物季節観測」というものがあります。「桜の開花宣言」のように花の開花であったり、ウグイスやセミの初音であったりと、気象庁のスタッフが自らの目と耳を使った確認方法というアナログなもの。昨年末に、この観察対象となる動植物の大幅な削減が発表されました。日本各地に点在する観測地点の自然環境の変化から、観察対象を見つけることが困難になったことが要因です。その削減された中に、ホトトギスがあったのです。
寂しい限りですが、昨今の自然環境を考えると、住み難(にく)くなったのでしょう。今では、見かけることも初音を耳にすることも容易ならざるホトトギス。しかし、かつては馴染みの鳥であり、歌人たちは待ち望んでいた感があります。生物季節観測に、その名を残していたことがその証ではないでしょうか。
今では渡り鳥であることが周知されているホトトギスですが、昔々は山にこもり5月頃に里に下りてくるとのだと考えられていました。「ヤマホトトギス」と書くのもこの考えからで、同じ鳥です。古人はどれほどこの鳥の初音を待ち望んでいたことか。声高らかに響き渡り、心地良いリズムを奏でる美しい鳴き声。テッペンカケタカやら特許許可局などと表現されるも、耳にした時には聞き惚れてしまうのでしょうね、この源頼政のように。
ホトトギスが鳴くのは、早朝か夕暮れ時だといいます。源頼政は、寝床に就いている「あさぼらけ」なのか、はたまた「夜の帳(とばり)が下りる」頃なのか。姿が見えぬ中で、ホトトギスの鳴き声は「清(さや)か」に空に響き渡る。その澄んだ高らかな声色に魅せられるように、床の中で聞き耳を立てたのか。それとも、誘われるように屋戸の外へ向かったのか。聞き惚れている自分の気持ちなどは意に介さず、雲路の先へ先へと遠ざかってゆく…

今から900年ほども前のこと、日本では平治の乱が勃発。この戦(いくさ)で刃を交えた源義朝は、平清盛に敗れ去りました。彼を父に持つ源頼朝は、まだ幼子であったため伊豆へ流されました。後に、彼が平氏を滅ぼし鎌倉幕府を開府することになろうとは、微塵にも感じなかったことでしょう。この戦によって、平清盛が時代の寵児となり、平氏の興生を導き、彼の孫の安徳天皇が即位するまでにいたるのです。
治承3年(1179年)の「治承三年の政変」と呼ばれる、平清盛のクーデターにより、後白河法皇が幽閉されることになりました。後白河院と平氏との確執が重大局面を迎えることとなり、院の第三王子である以仁王(もちひとおう)と、平清盛が擁立した高倉天皇(院の第七皇子)の両兄弟が対峙することになります。時の趨勢は清盛にありました。不遇の日々を送る以仁王の積憤はついに限界に達し、清盛打倒に動きだします。彼が頼りにしたのは頼朝とは別の流れをくむ源氏、源頼政でした。頼政は文武両道の賢才な人物だったようで、平氏側には寝耳に水のごとく。平清盛によって官位を得ていくという厚遇を受けながら、平氏の横暴に耐えかねたのか。真相は頼政にしか分かりません。史実は、以仁王が平氏追討の令旨(りょうじ)を発し、頼政もそれに加担したということ。
しかし、ことを急いだ代償か、平氏側に知られることとなり、追われる立場になります。源頼政は、藤原家の氏寺である奈良県の興福寺に助けを求めるため以仁王を南に逃し、頼政は宇治川を挟み平知盛軍と対峙し、ここに宇治川合戦を迎えたのです。結果は皆様のご存知の通り、多勢に無勢、善戦虚しく頼政は平等院へ敗走し、境内にて自刃するにいたります。命を賭してまで守った以仁王も、京都府木津川市の光明山寺にあった鳥居前で落命します。興福寺より向かいし僧兵は、この手前5kmのところまで、あと一歩のところまで駆け付けていたのだと…
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平等院敷地の片隅に、源頼政の墓碑(下の画像)がひっそりと建立され、いまでも辞世の句とともに宝篋印塔(ほうきょういんとう)を見ることができます。その傍らに、彼の辞世の句が書き記された立札がありました。

埋れ木の 花さくことも なかりしに 身のなるはてぞ 悲しかりける
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「以仁王の挙兵」にて散った頼政は、「花咲く(夢実現する)こともなかりしに」この世を去った頼政。命日は旧暦の5月26日であるとされています。旧暦と新暦の偏差が1月と10日ほどであることを考えると、6月末か7月初旬ということになります。この頃、いまではなかなか見かけなくなりましたが、夜の帳(とばり)が下りたころに「ホタル合戦」が繰り広げられます。
ホタルには、「ゲンジボタル」と「ヘイケボタル」がおり、この時期は、両者の派閥争いをしているのではなく、ゲンジボタルが最愛のパートナーを探しているだけのこと。ヘイケボタルが輝くのは、もう一月ほど待たねばなりません。闇夜に機敏に煌めくや光が、合戦を想わせたのでしょう。ちょうど源頼政の命日に近く、彼の無念さがこの合戦を生んだのだというのが、「源氏ボタル」と名付けられた所以であるという、諸説ある中での一つお話です。
ホタルの名前の由来になるほど、当時の人々の中では好漢であったのでしょう。その頼政は、どのような夢を想い描いていたのでしょうか?今では知る由もありません。ただ、彼のとった行動は、謀略という簡単なものではなく、日本の大革命をもたらした「鎌倉幕府」を生み出すきっかけとなりました。以仁王の挙兵に端を発した源平合戦なくして、ありえなかったことでしょう。
後編は、ウグイスの声から鐘の声へ。平家物語のクライマックス「壇ノ浦」での人間模様にふれながら、建礼門院の辞世の句をご紹介させていただきます。
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源頼政は、計略が平氏側に洩れた時点で、我が身の運命を悟ったのでしょう。だからこそ、無謀にも宇治川合戦に挑んだ。ホトトギスが美しい声色を響かせながら、雲路を遠くへと去ってゆく。頼政の夢もまた、花咲くこともなく遠く去っていってしまった…

<後編に続きます>