式子内親王と藤原定家の梅の歌の想うこと

2021/03/09

ながめつる けふは昔に なりぬとも 軒端の梅は われをわするな  式子内親王
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詠者の式子(しょくし/しきし)内親王は、後白河天皇の第三皇女です。平安時代後期、京都の皇居を中心に、うごめく権謀術策の数々。病弱でありながら、斎院(さいいん)として、勝者必滅を体現しているかのような世相の中を生き抜いています。斎院とは、加茂御祖神社に奉仕した皇女のこと。1169年(嘉永元年)に病のために斎院を辞するも、前(さきの)斎院として生涯を独身で過ごしました。
どのような時代でったのか、多少の脚色はあるかと思いますが、古典「平家物語」が当時の様子や人間ドラマを生き生きと伝えてくれています。この物語の後半で源平合戦が語られ、平家滅亡を迎えることになります。この合戦の契機となった事件が、「以仁王(もちひとおう)の挙兵」でした。
1179年11月、後白河法皇は権勢を誇る平清盛に対しクーデターを画策するも失敗に帰し幽閉されます(治承三年の政変)。名ばかりとはいえ、時は高倉天皇の治世。実父である後白河法皇と、実母の姉が平清盛の妻であり、皇后は清盛の娘建礼門院という高倉天皇にとって、この確執が与えた心労は計り知れません。憂慮し疲弊しきっていたのでしょう、1180年(治承4年)3月に安徳天皇に譲位し、翌年には崩御されてしまうのです。
家族の中にずけずけと入りこみ、壊乱し続け、ないがしろにする平清盛に耐えかねたのでしょう。後白河法皇の第三皇子、以仁王が令旨(りょうじ)を発し地方にくすぶる反徒に挙兵を促したのです。しかし、ことを急(せ)いた代償でしょう、以仁王の挙兵は平家の知ることとなり、都を追われます。源頼政が追手の盾とならんと平等院鳳凰堂にて決死の戦い「橋合戦」を挑むことで時間を稼ぐも、以仁王は奈良の興福寺へ向かう道半ばで討たれしまうのです。この事件を皮切りに、全国の反平家勢力が挙兵し、治承・寿永(じしょう・じゅえい)の乱、源平合戦の火蓋が切って落とされたのです。
この以仁王は、式子内親王の同母兄弟であり、平清盛が擁立した高倉天皇は異母兄弟。後白河院と平氏との確執が、この両兄弟が対峙するという局面を迎え、彼女の中で厭世(えんせい)の想いが募ってゆく。この世間を揺るがしたこの兄弟喧嘩は、源平合戦となり6年間にも及ぶ大内乱にまで発展していきました。
荒廃してゆく京の街を目の当たりにし、時世に翻弄される右往左往とするなかで、彼女の心の支えとなっていたのが「和歌」だったような気がいたします。日本語としての「ひらがな」が誕生したばかりで、言語としてはまだままならない時代。さらにどろどろしい権力争いはびこる中で、想いの丈を吐露できるのは、和歌の中だけではなかったのかと思うのです。31文字を駆使して表現するために、言葉を選び、選び抜くことで、想い同じくする者にしか分からない感情を詠いあげる。ある種の暗号のように思えなくもありません。

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斎院の任期中も、宮中との交流を積極的に行い、和歌の研鑽に励んでいます。彼女が詠い遺した歌のなかで、現存するものは400首ほどで、他の詠者と比べると少なくはありますが、その1/3が勅撰和歌集に入集しているほどの技量の持ち主。自然や人間の機微を捉え、優美で色彩豊かな歌で表現される女性ならではの感性が、おおいに人々を魅了したのです。
式子内親王は京都の大炊御門(おおいのみかど)通りと万里小路(までのこうじ)通りの交わる地の公邸、通称「大炊殿(おおいどの)を父である後白河院より相続し、この地が終(つい)の棲家となりました。そして、この公邸には、後鳥羽院がお忍びで愛でに来ていたというほど梅の樹があったといいます。
地球の周期に習い、毎年のように春の到来を梅の花が告げてくる。手折りした梅の立枝を着物の袂に忍ばせ、袖に薫(た)き染める。梅の香りは恋の香り。着物の袖にこの香を薫(た)き染(し)め、男性に感づいてもらうことで、意中の男性へ恋心を伝えようとする。当時はバレンタインデーのチョコレートではない。梅の花が、どれほどの恋物語を生み出してきたことだろうか。当時に生きる式子内親王も例外ではありません。
彼女が病で床に伏している晩年、垣間見る庭木の中で、見事なまでの梅の樹がり咲き誇っている。何を思い、思い出していたことか。皇女だからと平穏無事な日々を過ごせるような時代ではありません。彼女は斎院として未婚を通し、そのまま出家する人生を選びました。いや思い悩んだ末に、できうることを尽くし、最善と思われるこの道を選んだのではないでしょうか。
冒頭で、皆様にご紹介した歌はこのような意味でしょうか。「軒端に咲き誇る梅の花は、物思いに耽(ふけ)る私をいつも慰めてくれました。私が死して今日という日が昔となってしまっても、この梅だけは私を忘れないでいてほしい。」彼女が薨御(こうぎょ)する前に詠んだ歌です。凛とした女性が微笑んでいる、そのような姿が脳裏に浮かびます。

梅(むめ)の花 にほひをうつす 袖のうへに 軒もる月の かげぞあらそふ  藤原定家
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梅を「むめ」と読むのは、平安時代からのこと。諸説あるかと思いますが、平安時代のお公家さんのいでたちから想像するに、「う」と口が突き出た表情を嫌ったのではないでしょうか。「まろは~」と語る文化だからこそ、「む」という口を閉じた発音に美を感じたのでしょうか。
暗闇の中でも、隠しようがない梅の花の香り。その香の元へと目を向けると、そこには、薫(た)き染(し)めようと袖を広げているしている女性がいるではないか。すると、空高くと上がってきた月が軒端(のきば)より姿を現し、この女性を月明かりが照らしはじめる。梅の香と月の光が相まって、この女性の美しさがいっそう引き立てられている。さらに、闇夜(やみよ)の月明かりによる、優しい光と影が、この光景に得も言われぬ魅力を与えている気がします。
式子内親王が居とした大炊殿(おおいどの)には、見事なまでのの梅の樹があったといいます。この梅の樹が一輪また一輪と花開く時期、「軒端(のきば)の梅は われをわするな」と詠ったのは彼女の晩年のこと。そして、この歌は「正治初度百首(しょうじしょどひゃくしゅ)」に出詠されました。
これは、後鳥羽院の命により、指名を受けた作者が百首を詠進し、その選りすぐりを集めた作品です。1200年(正治2年)12月末に完成を迎えます。そして、この中には、先ほどご紹介した藤原定家の名句も入っています。
式子内親王が薨御(こうぎょ)されたのは、1201年(建仁元年)1月25日です。選ばれし歌人が「正治初度百首」へ詠進していた前年の夏過ぎには、すでに病床についていたといわれる内親王が、心身研ぎ澄まして31文字に魂を吹き込むことに耐え抜いたものでしょうか。これは、内親王が過去に詠われた美しき歌の中から、定家が選び詠進したのだというのです。
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さて、式子内親王には、秘めた思慕の相手がおり、それが藤原定家だという説があります。定家は、五摂家(せっけ)の一つで九条家の祖である九条兼実(かねざね)に、家政を掌(つかさど)る家司(いえのつかさ)として仕えていました。当時、九条兼実は式子内親王を擁護していたため、定家は兼実の使いで内親王の館に出入りをしており、ともに歌の研鑽を磨く中で、恋愛感情を抱いたとも考えられます。しかし、どうも腑に落ちないのです。
定家を記す文献には、かなり気難しいという人物像が描かれておるのです。妥協を許さない厳しさを和歌に対してもっていたようで、式子内親王とは和歌の世界で腕を競い合うライバルであったのではないでしょうか。お互いに切磋琢磨するなかで、定家は、彼女の女性らしい感受性によって詠われる、美しい世界観に魅せられた一人であったのではないでしょうか。そして、彼女の叶わぬ恋慕が誰なのか?知っていた気がいたします。
式子内親王の悲しいまでの境遇を知るからこそ、病床の中で苦しむ内親王に負担をかけぬよう、代わりに選び、「正治初度百首」へ詠進する手間を惜しまなかった。命の灯が消えかけていると悟った定家は、彼女の思いと才能を詠進することで世に遺そうとしたのではないでしょうか。
大炊殿の梅の樹が、誰もがほれぼれする樹形であるならば、軒端に植わっていては、枝の成長を屋戸が邪魔をする。この居住空間である屋戸の脇が「軒端」なのであれば、「軒端の梅」は近くにいてほしいと願う、思慕する相手のことではないのか。定家は、式子内親王の最後の想い「われをわするな」と、隠し通さねばならない恋だけに、彼へ密かに伝えようとしたではないと思うのです。

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藤原定家は「梅の花の香りを袖に薫(た)き染(し)めようと袖を広げているしている人がいる。その袖には軒端(のきば)から漏れ射す月の光が照り、まるで梅の香りと競い合っているようだ。」と詠いました。彼らのおかれた状況を知ることで、意味合いが少しばかり変わってくるような気がいたします。
定家が詠んだ、梅の香を袖に薫き染めようとしている人物は、式子内親王のことではないのか。彼女は、秘め通さねばならなかった思慕する相手が、大炊殿の梅の樹の脇を通り、姿を見せることを幾度となく夢見たことでしょう。今は、思うがままに貴方に薫ってもらいたいからからこそ、袖に梅の香を薫き染めめようかと思います。貴方は近くにいらっしゃるのでしょうか。軒端より漏れ射す月の光は貴方の私への想いの現れでしょうか。
定家は、式子内親王へのあまりある敬意を込め、色彩豊かな描写と光の輝きを放つ、さらには薫香をも感じてしまうような美の世界を詠い上げました。そして、此岸(しがん)では叶わなかった思いが、彼岸(ひがん)で成就(じょうじゅ)することを願い、こうまとめた気がいたします。「どちらの想いが強いのか、まるで競い合っているかのようだ。」
時代に翻弄(ほんろう)されたお二人は、今はどうしていることでしょうか…仲睦まじく寄り添っているいることでしょう。
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