
美しい所作礼法
2025/09/18
『所作礼法、構(かま)うこと無し、されどゆめゆめ疎(おろそ)かにすることなかれ』
とある夏の日、遊芸で評判の茶会に誘われ出向いたことがありました。その茶会では「所作礼法お構い無し」との触れ込みがあり、その趣向に興味をそそられたものです。ところが、いざ茶席に入るなり余りにも風変わりな様相に、何とも言いがたい「ぬるい茶」を経験することになりました。ちなみに、ぬるい茶とは茶人らが用いる良からぬ状況を表す隠語です。
確かに、世間では茶道の所作礼法が四角四面の堅苦しい形式に囚われ、それが理由で足が遠のくとの話をよく耳にします。しかし特段、茶道に限らず日本文化を代表する芸道の多くは、おしなべて一様に「礼法」を重んじる特異性があります。その起こりは古く武士道に由来があるようです。そこで、武道や茶道にまつわる礼法の来歴を訪ねることにいたします。
時は鎌倉時代、武家社会には公式礼法の規範が家臣たちへ厳に言い渡されていたようです。武家の世界では上下関係が厳格です。ひとつ礼を失する過ちを起こせば、自ら命を絶たねばならぬほどの緊迫した社会が成立していました。そのような中で、武士たちの身なりや立ち居振る舞いなどを秩序化する目的で「所作礼法」が生まれています。
とかく、礼法は儀式ばって打ちとけにくいと思われがちですが、決してそのようなものではありません。故事にいわく「所作礼法は単なる礼儀作法にあらず、基本的な心身を整える心構えであり、いわゆる正しい形(かた)を授けるものである」と説いています。
つまり礼法の背景にあるものは『心』です。相手を思いやる心情や相手の内なる思いを察する心遣いなど古来日本人が大切にしている『心の育み』が底流にあるのです。
外見的な姿形を超えた内面的な心をもって臨機応変に姿を整える、言わば行動の美学でもあるわけです。
通説の「畳の縁を踏んではいけない」などという形ばかりにこだわるのではなく、その対象とする人や物を思う温かな心遣いが大切なのです。それがゆえに礼法に準じた所作には日本固有の凛とした美しい心の花が芽生え、相手に危険や不快を与えぬ安堵な心技融合の姿により平和で幸せな時空が創り出される要因となっています。この形態が所作礼法の真義です。
儒教では「礼に始まり礼に終わる」と説くように、礼法は最も大事な人道的モラルとして崇められています。場に応じて相手に敬意を現わす時には「礼義」の教示に基づき正しい身のこなしである「礼儀」の作法に則り、心の『義』と所作の『儀』を法に準じて体現します。
紛らわしいことですが「礼義」と「礼儀」とは同音異語です。礼の義とは教義の真理のことです。一方の礼の儀とは儀式などに用いる作法、つまり具体的な行の姿のことを意味します。
茶の世界でも希少な一期一会に巡る心の礼を尊び「礼から事を始め、礼により終焉を迎える」という、主客融和のもてなしの一連に礼法を励行しています。
ところで、誤解なきようにお断わりをいたします。『礼法』とは武芸百般にわたる心得とは言われていますが教示の一片に過ぎません。決して、礼法を無理強いするものではありません。礼の行使は皆さま個々の価値観に委ねるものとし、その意を前提として本題に入ります。
茶会を催す場合は「前礼:ぜんれい」から始まります。前礼とは事前に茶会にお招きする方へ催しの主旨をお伝えし、参会のご都合をお伺いするエチケット(礼義)です。まずは先様の意向を確認してから、亭主は具体的な諸事万端の準備に取り掛かります。
いよいよ茶会当日です。亭主は事前に客人への気配りや敬意など慎みをもって気働きに努めます。その出迎えに先立ち「失礼:しつれい」に触れぬ接遇に心身を投じます。失礼とは、礼義をそこなうことです。また客人に「無礼:ぶれい」があってはなりません。無礼とは、道理をわきまえていながら礼儀に反する行為です。時には「無礼講:ぶれいこう」をうたい礼儀作法から逸脱した宴が催される場合もあります。この宴席では、機に臨み変に応じて対応をします。
そして「非礼:ひれい」にも注意が必要です。非礼とは、そもそも礼義の道理をわきまえていない人の行為です。なお「背礼:はいれい」に対しても油断は禁物です。背礼とは、礼儀の道理にそむくことで行ってはならぬ悪しきマナー(作法)です。
最も気を払わなければいけない行為に「虚礼:きょれい」があります。虚礼とは誠意の無いうわべだけの偽善です。独眼竜の伊達政宗も「礼に過ぎれば、へつらいとなる」と配下の家来たちに過剰な礼となる虚礼を厳しく禁じていました。
亭主は、このように多事多面にわたる所業に心を配りながら茶会を終えていきます。
のちに日を改めて「後礼:こうれい」を行います。後礼とは「謝礼:しゃれい」とも呼ばれ、客人との一期一会の歓喜とご足労をいただいた感謝の思いを伝える散会後の礼儀です。
この茶会が事なきを得た暁には、静寂な茶室でひとり独服の茶を点て、自らの安らかなひと時をもちます。そして茶会の余情にひたりながら、もてなしに不備不足がなかったか顧み無事に終演を迎えられた報恩を神仏に「拝礼:はいれい」し、茶会の完結をみるのです。
茶会は「前礼」の挨拶で客人をお迎えし、茶庭や茶室では「失礼」「無礼」「非礼」「背礼」などに気遣い、過ぎた「虚礼」は慎み、茶会の終焉には「後礼」で謝辞を届け、最後に神仏へ感謝の「拝礼」をたむけて茶の湯のセレモニーが終演するのです。
この随所にまつわる所作礼法は『礼記』に解かれています。この礼記とは儒教の教書の一つで原案は前漢時代にまとめられた礼に関する経本です。宋の時代になり朱熹(朱子)が旧礼記をさらにまとめあげ、四書五経の礼記が誕生し、今に伝わります。
人と人が心を通わせ理解し合うためにも正しく美しい所作礼法を通して接することで、新たな人間関係が生まれてくることでしょう。
時局多端な現代に、茶の湯や武道に観る美しい所作を日々の暮らしに取り入れるのも素敵な時間をもたらす一計かと思えます。花をいつくしむ優しい思いで人さまと接していれば何もかしこまらずとも、自然と親交は深まり新たな明るいシーンが訪れる予感を覚えます。
その時空には、思いも寄らぬさわやかな『礼節』の風が漂っているに違いありません。
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