語らい

2021/02/03

「冬至 冬中 冬はじめ」とはよく言ったもので、2021年1月5日「小寒」、20日「大寒」と2月3日までの「立春」までは、暦の上でもまだまだ冬であり、寒さ厳しい期間です。明治時代に太陰太陽暦からグレゴリオ暦へと改暦したこともあり、多少の季節の誤差があろうとも、今も昔もこの時期は寒かったはずです。
2
かつて暖房器具が乏しい頃にあり、暖を取る方法は薪(たきぎ)を燃やすことでした。しかし、屋内では火災の危険が付きまといます。昔の日本は住居が密集しているため、一歩間違うと町自体が焼け野原となり消滅してしまう可能性すらありました。そこで、先人たちは、「炭」という画期的な逸材を発明したのです。
この炭の登場が、どれほど人々の生活を変えたことでしょうか。暖房器具としては、今のストーブとは比べてはいけないほど微力ながら、古くは平安時代に始まり、戦後の高度成長時代にまでの長きに渡り、我々の生活に密接にかかわってきました。この炭の利点は、囲炉裏や火鉢の中で、尉(じょう)の中で種火の残った炭を保管することができたことです。火鉢の中で、炭を最後まで燃しきった時、グレーがかった白い灰となる。これが尉であり、この中に火のついた炭を埋(うず)めておくことで、種火を残しておけるのです。これを「埋み火(うずみび)」や「埋(い)け火」といいます。ライターなどあろうはずもなく、火を起こすことが難儀な時代です。なんという生活の知恵でしょうか。

さよふけて かきおこすかげの くれなゐも 花の春ある 埋み火のもと  
                       三条西実隆

詞書(ことばがき)には、「炉火(ろか)忘冬」と書き記してあります。冬を忘れさせてくれるものといえば、炉の埋み火である実隆はいう。夜が更けて、寒さ一段と厳しくなる頃。外はしんしんと雪が降ってるのでしょうか、それとも寒さに冴えわたる星月夜なのでしょうか。月明かりもない部屋の中で、あまりの寒さになかなか寝付けない。この寒さはなんとかならんものだろうか、と心に思いつつ、凍える手に吐息を吹きかけ、火鉢のもとへと向かう人影がある。暗がりに目が慣れることで、白みがかった灰色の尉が、闇の中でうっすらと浮かび上がってくるようだ。火箸でその尉をかき分けると、ぽっと闇の中から眩(まばゆ)いばかりの炎が姿をみせる。尉の下に埋もれいた炭にくすぶっていた埋み火が、空気に触れることで熾(おこ)る。
梅
暗闇の中で、深紅から鮮やかな紅色へ、めらめらではなくゆらりゆらりと熾るその埋み火には、得も言われぬ優艶な美しさがあります。実隆は、ここに花咲き誇る春を見出します。彼は室町時代後期から戦国時代にかけて活躍したお公家さん。彼(か)の時代、「花」は「桜」のことを指し示すことが多いのですが、埋み火を想うと、まもなく 

花開く紅梅や木瓜(ぼけ)の花の方がしっくりときます。
「梅の花」を「花」と詠い遺した万葉歌人へ敬意の表れなのでしょうか。
ボケ
「人の人たる所以(ゆえん)は、人間関係にある。」と喝破したのは、ドイツの政治学者オットー・フォン・ギールケです。自然界の弱肉強食の世界とは異なる人間関係は複雑怪奇であり、多くの賢人が果敢にこれに挑むも、いまだ結論が出ていません。人が社会で生きてゆくには、必ず人と人との接点があり、人間関係に一喜一憂するものです。
いがみ合うばかりの動物ではない。人の思いは十人十色であり、その誤解を少しでも減らそうと、意思疎通を図るために「言葉」を生み出しました。人類が初めて手に入れた言葉は、目に見えるものを音にして伝えようとすることから始まり、意思をより正確に伝えるべく「話し言葉」という会話へ。さらに、距離や時の隔たりがある人へは、「文字」を並べることで気持ちを書き綴(つづ)ることを思いつくのです。
古代日本では、「話し言葉」としての日本語はあるものの、「文字」というものがありませんでした。土器などに「絵」で描き記すのでは不十分であり、きっと何か良い方法を模索していたのではないでしょうか。そこに、古代中国から、会意文字として圧倒的な完成度を誇る「漢字」がもたらされたのです。
始めてみる難解な文字に四苦八苦したことは容易に想像がつきます。しかし、知るほどに「漢字」のもつ言語としての有用性を認識することになるのです。そこで、古代日本人は、話し言葉である日本語を、「漢字」の読みの音を利用し書き記してゆこうと思い立ったのでしょう。この画期的な歴史的産物は、古墳や古代宮都跡から出土する鉄剣やら木簡、さらに奈良の正倉院の古文書に見ることができます。
ところが、漢字の次にもたらされた唐風文化が、大和朝廷を席巻することになります。大和朝廷の公文書が「漢字」で記載され、天皇を含めた公家の中では漢詩が教養の基本となるのです。このままでは日本語が消えてゆく、そう危惧の念を抱いた賢人が歴史の表舞台に登場します。
額田王(ぬかたのきみ)を筆頭に、柿本人麻呂、山上憶良や山部赤人(やまべのあかひと)ら万葉歌人です。日本最古の歌集「万葉集」は、和歌を前述したように漢字の音を利用して書き綴ったのです。ここに、この「書く」という技法が極まったこともあり、この文字は「万葉仮名」と名付けられました。「もみじ」のことを「毛美知(もみち)」と書く中で、「黄葉」とする歌人もいる。漢字の知見を得ることで、日本人としての美的感覚がこれを許さなかったのでしょう。漢字の音を利用するという苦肉の策とも思える中での、歌人の意地を垣間見ることができます。言語が発展途上であるとき、人は歌によって気持ちを伝えてゆきました。中国語では漢詩であり、日本語では和歌です。万葉歌人は、今自分がどのような気持ちなのかを整理し、どのように相手に伝えるべきなのか。

さらには、自然の機微を感じとり、どう表現したものかと模索してゆく。
そして、伝えたいという思いを込めた言葉を選び、「語りかける」よう詠っています。万葉集の和歌が、「朴訥(ぼくとつ)」と評価される所以は、ここにあると思うのです。
約1300年も前の和歌ながら、今なおその輝きが衰えないのは、この「語りかけるよう」に詠っているところにあるような気がいたします。万葉歌人が詠った気持ちや自然描写を、馴染みの「ひらがな」と常用漢字に置き換えることで、今の時代にありながらもすんなりと受け入れることができる。きっと、声に出して読んだ時の音色が、心地良く心に響くのでしょう。

熟田津(にきたつ)に 船(ふな)乗りせむと 月待てば 潮(しほ)もかなひぬ 今は漕ぎ出でな  額田王
月
天智2年(663年)、百済(くだら)と大和朝廷の連合軍と唐と新羅(しらぎ)の連合軍が、朝鮮半島で激戦を繰り広げました。歴史の教科書に名を連ねる、白村江(はくすきのえ)の戦いです。この戦(いくさ)の前に、百済の要請に応じるように、大和朝廷は援軍を派遣していました。その中で、時の斉明(さいめい)天皇と中大兄皇子(なかのおおえのみこ)、そして額田王が同行していた一軍があったのです。
熟田津は、今の愛媛県松山市にあったといわれています。この地から船出しようと好機を待ちわびる。月が導くかのように格好の潮の流れとなったではないか、さあ漕ぎ出でよう!
いまでこそ「月」に「山」と漢字で書きますが、かつては「つ・き」に「や・ま」であり、この「つ」や「や」に何か意味があるということでもなく、「つき」や「やま」という音の響きが、古代日本人の心に染み入ったのでしょう。今も生き続けているこの言葉は、「大和言葉」と呼ばれています。
不思議なことに、この大和言葉で書き綴られた文章には、日本人が読み取ることのできる「温もり」や「やさしさ」、さらには相手を思いやるも語らない「奥ゆかしさ」が含まれている。書き言葉というよりも、語り言葉なのでしょう。その心地良い音色を耳にすると、知らず知らずに感動を覚えてしまうものです。

秋山の 黄葉(もみち)を茂み 迷ひぬる 妹(いも)を求めむ 山道知らずも  
                   柿本人麻呂
紅葉
最愛の妻に先立たれ、悲しみに暮れる日々。黄葉に彩られた美しい秋山に、妻は迷い込んだのではないだろうか。妻を探しに山深くに分け入りたいが、なんということか私はその山道を知らない…悲しみに打ちひしがれている気持ちが、ひしひしと伝わってきます。黄葉の山路は、現世から黄泉の国へと続く道を言い含めているのでしょう。そこにいるのは分かっているのだが、会いに行けないもどかしさや不甲斐なさが、「山道しらずも」ににじみ出ています。このやるせなさを、

いったい誰に語ればよいのでしょうか?と自問している気もします。
万葉集に記載されている歌の数々は、自然や状況描写、悲哀に恋愛など、思いの丈をこれでもかと素直に書き綴っています。万葉仮名で書かれていてとしても、声に出すことでその音色が心地良く響き、まるで「語りかけている」かのようです。日本語ままならない中で、連綿と受け継がれ慣れ親しんできた「大和言葉」を駆使し、なんとかして書き遺そうとする、歌聖たちの英知の結晶なのでしょう。
しかし、時の趨勢(すうせい)に抗することは容易なことではありませんでした。万葉歌人の奮闘むなしく、漢詩の時代へと突き進み、和歌に暗黒時代が到来します。この圧倒的な勢いを誇る唐風文化の中に、万葉歌人が一石を投じなければ、今の日本語の姿はなかったかもしれないと、そう思わないではいられません。

時下り、平安時代に「ひらがな」が誕生しました。これにより、和歌の暗黒時代が終わりを迎え、再興が始まります。日本語としての「ひらがな」が発展途中だからこそ、和歌という手法で、花鳥風月の美しさや、今の自分の心境を伝えようとしたのです。「古今和歌集」と「新古今和歌集」という勅撰和歌集が編纂(へんさん)されるに至り、今なおその輝きに衰えはありません。
万葉時代と異なるのは、「ひらがな」という日本固有の言語を生み出したことで、大和言葉に深みと幅が生まれたことでしょう。会意文字である漢字は、その一文字で意味を表します。しかし、「ひらがな」は読み方によっては、意味の違うことも表現できてしまう。平安の歌人は、この「ひらがな」の深みに着目し、掛詞(かけことば)なる技巧まで生み出し、繊細で優美な歌の数々を遺しました。
どちらの時代の歌も、親密な人へ送った手紙に書き記したものや、仲間内での歌会で披露したものであり、「語る」ように詠っています。自分の気持ちどう表現したものか、どうしたら相手に伝えることができるか、慎重に言葉を選び31音の文字で組み立ててゆく。そこに、大和言葉の持つ響きや、独特な「柔らかさ」と「やさしさ」のある意味合いが加味されることで、聞き手の胸を打つ一首となるのです。

埋(うづ)み火の あたりに冬は 円居(まどゐ)して むつがたりする ことぞ嬉しき  隆元(りゅうげん)
昼間なのか夜更けなのか、寒さ厳しい中で、さあ火鉢を囲もうではないか。埋み火を熾(おこ)し、手をあてて暖をとろうではないか。この親しい仲間と火鉢を囲みながらの「語らい」とは、なんという嬉しいひとときではないか。昨今のコロナウイルス災禍で失いつつあるのが、この「むつがたり」、「語らい」ではないでしょうか。オンラインでの里帰りは、確かに便利で有用でした。しかし、画面の向こうには本人がいるにもかかわらず、違和感を覚えずにはいられません。これが行き過ぎた場合、現実と架空の世界の区別がなくなってしまう気がするのです。AIの発達により、画面の向こう側に新しい世界ができないとも言い切れません。極論を言ってしまえば、画面の向こうに映る人が、今生きているのかどうかすら分かりません。

鳥
なぜ、人は人と会いたくなるのでしょうか。オンラインは、どんなに声色が似ていても、やはり電子音である。音には耳が聞き取れなくとも、心に響く音階があるはずです。だから、目と目を合わせ、触れることのできる距離で「語らい」合う。馴染みの言葉で、聞き慣れた声色は、得も言われぬ安心感を与えてくれることか。今、この「語らい」が無いがために、心にゆとりがなくなり、疑心暗鬼となることでSNSなどでの誹謗中傷や陰口といったような、言葉の暴力が絶えないという負の連鎖に陥っているような気がしてなりません。そこで、今一度、自分の言葉遣いを省み、「大和言葉」を見直してみてはいかがでしょうか。日本人が知らず知らず身につけてきた、人間関係を良き方向へと向かわせる魔法の言葉、「大和言葉」を理解するDNAを持っているのです。
今後しばらく外出を控え、ご自宅で過ごされた方が多いのではないでしょうか。火鉢や囲炉裏は無くとも、家族や親しい友人と食卓やコタツを囲むことで、普段は気にも留めないことが話題となり、心地良いひとときを過ごすこことができるはずです。密を避け、十分なウイルス対策を講じ、騒ぐではなく「語らう」ことは、忌避すべきことではないはずです。さすがに、31文字で語らうことは、我々にはできません。そこで、大和言葉を意識しながら親しい方とゆっくりと時間をかけながら「むつがたり」する贅沢を楽しんではいかがでしょうか。「むつがたりする ことぞ嬉しき」は、今も昔も変わりません。

最後まで読んでいいただき、誠にありがとうございます。
「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。くれぐれも御身おいたわりください。