茶の湯と剣の道

2025/05/15

いつも、心おだやかに毎日を楽しく過ごしたい…。
誰もが、そのように心の平穏を願っていても日常の人間関係や、はたまた仕事のことなどで心が波打つのが現実です。その騒ぐ心を鎮めるために座禅や滝行などの体験が人気を呼んでいるようですが、もう少し気軽にチャレンジできるものがあります。それが茶道です。
とは言え、とかく茶道となると堅苦しいイメージが立ちはだかります。しかし、さにあらず。なにも先生の所作をなぞるだけがお茶のすべてではありません。基本的な所作を身に付けることは大切です。けれど、それよりむしろ自分なりの素直な心持ちでお茶に親しまれるほうが、より重要な心構えだと思えます。

時は安土桃山時代、千利休は茶の湯の教えを書に残さず、ましてや語ることも少なかったと伝わります。珍しく語り遺された話が「お茶は一期に一度の参会」という逸話でした。茶会は一生に一度の出会いという亭主と客の心構えを説いたもので、これが『一期一会』の由来となっています。そして利休はさらに亭主の所作の心積もりとして「所作礼法構うこと無し」ということも添えています。つまり、決まり事に縛られた亭主の姿ほど見るに堪えがたいものはないという戒めです。利休の真意は、一期一会という掛け替えのないひと時に、亭主は束縛のない自然体の姿で客をもてなすことこそが、茶の湯の王道だということでした。
ところで「所作に構うこと無し」という教示は、万事に通じた鉄則のようです。剣豪として知られた宮本武蔵も、武道において「剣術に構え無し」という同じ論法を唱えています。
すなわち「お茶の道」と「剣の道」の極意は、深い精神領域で双方は結ばれていたのです。
『神仏は尊し、されど神仏には頼らず』
1634年、神仏を敬いながらも、神や仏に頼ることを自分に許さなかった宮本武蔵は、自らの波乱に満ちた60年間を静かに振り返り、剣の道を『五輪書』にまとめています。
密教の「地・水・火・風・空」の五巻に編成された五輪書は、剣の心に触れながらも一貫して実践を通して説かれた実技実用の書物として伝わります。
五輪書『水の巻』にいわく、剣術は「水」を手本として、わが心を水のようにするのです。

水

水は四角い器でも丸い器でも、その形状に従い姿を変えます。その水の一滴がやがて大海になるのです。わが「二天一流」の兵法の道をこの『水の巻』に書きとどめます。
それすなわち「剣術に構え有って、構え無し」を知ることが重要です。敵と向かい合った時、太刀に決められた「構え」が有るようでいて、実は「構え方」などはありません。その時、その場に応じて構えは変わるからです。その時、その場に応じて、相手を斬りやすいように太刀の構え方を柔軟に変化させるのです。まさに心を水のごとくにするのです。
剣を構える場合は、相手の太刀をどのように払うべきか、または受けるべきかなどと思っていてはいけません。ただただ相手を斬り倒すのだという一念を大事にするのです。すべては相手を斬るためなのです。だから「構え」に拘っていてはいけないのです。構えながらも、構えに拘らない柔らかな心が大事です。このことが「構え有って、構え無し」の真髄です。この勝利に導く方法を二天一流として伝えます。よく修練を重ね流儀を極めなさい…云々。
なお『二天』とは武蔵の雅号です。ここでいう剣術の「構え」とは、お茶でいう「点前」に当たります。一休さんの「分け登るふもとの道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」と説くように、お茶の道も剣の道も登りつめれば同じ美しい月を眺めることになるのです。一事は万事につながるという日本の伝統文化の教えです。

武蔵

ときに宮本武蔵は『文武両道』の精神にも心を寄せていました。この二元論は悠久の昔から武士道に尊ばれていた精神論です。その起源は古く紀元前91年頃、中国の歴史書『史記』に「文事ある者は必ず武備えあり」と説かれています。そして、わが日本でもこの精神論は敬われ、約800年前の源平争乱を描く『平家物語』の一節に「あっぱれ文武二道の達者かな」とうたわれ、文事つまり学識芸道の素養と武道の嗜みの両方の能力を兼ね備えることが、その道の極意だということを教えています。特に戦国の世になると武家にとっての茶道が文事として扱われていた様子がうかがえます。この精神論を大切にしていた人物が宮本武蔵でもありました。武蔵は五輪書の冒頭に「武士は文武二道といって、この二つの道を嗜むことが武士の道である」と述べています。武蔵は文字通り「武事」のみならず「文事」の世界にも優れた才覚を現しています。その武蔵の遺作は時を経た現在でも鑑賞することができます。
真言密教の根本道場として栄えた京都の東寺(教王護国寺)観智院・国宝客殿の床の間には、武蔵の『鷲の図』と『竹林の図』が対幅で並んでいます。また重要文化財の『枯木鳴鵙図:こぼくめいげきず』の絵図には、剣術にも勝る武蔵の豊かな精神性を偲ぶことができます。
往々にして『文』と『武』の両者は、似つかぬものと思われるむきがありますが決して相反するものではありません。もとより、武蔵は武術家であり格闘家ではありませんでした。

とかく私たちは、狭量な考えにより自らが選んだ道をこれぞとばかりにしがみつき、他なる分野に傾倒することをこばみがちですが、ここで述べた「構え」という既成概念に拘らず、加えて「文武両道」という偏らない心で自らの可能性を広げるという古式習わしが、現代的な課題とも重なっているように思えてなりません。
「自分には、これしかできない」と思い込み、選択肢を広げないのは誠に残念なことです。
もしも社会の向かい風に負けそうになったなら、心の扉を開け放し自らの世界を広げてみてください。そして新たな道に挑戦してみてください。
この勇気ある気概が、毎日を元気に過ごすための活力の源となることでしょう。
風光り若葉が萌える季節です。貴方の新たな目覚めを花々が、ことほぐように満開となって迎えています。どうぞ明日に夢を描き、自由に好奇心の翼を広げ羽ばたいてください。

鳥