音なき音を聞く、公案禅の世界

2024/05/20

現代は悩み多き時代です。誰かが「ああだ」と言えば、誰かは「こうだ」と言い返します。さてさて、私たちの求める正解はどこにあるのでしょう。情報の多さに悩みは尽きません。しかし無理もありません。それぞれの立場によって見解が異なるのはごく自然なことです。どちらも正しく、またどちらも間違いであったりすることもよくあります。なんとも道理にはずれた悩ましい話ですね。
そこで、この謎めいた思考回路を探ってみることにしましょう。ひょっとしたら悩みの世界から私たちを救い出してくれるかもしれません。

ここで、ちょっと質問です。円柱のコップは、どのような形をしているのでしょうか?
コップを上から覗くと丸い円形です。ところがコップを横から見ると角張った長方形です。あろうことか、コップが壊れたらそのコップの姿はたちまち形を失います。
さて困りました。尋ねられた答えが定まりません。なぜならばこの問いかけは私たちの視座によって形が変わり、確たる答えを見いだすことが出来ないからです。どうにも悩ましい限りですが、実は私たちを悩ます原因がこの質問の中に隠れていました。
この悩みの答えは明解です。「答えが有る」「いや答えなどは存在しない」という、私たちのあらぬ思い込みによる既成概念に原因があったのです。つまり悩みの解消はこの原因を断ち切ることで、心地よい晴れやかな気分で前に進むことが出来るというわけです。
私たちは時に正しさを闇雲に追い求めるあまり、自ら迷いの扉を開けてしまうことがあります。でも、ちょっと立ち止まり事の次第を静観すると、悩ましい迷走から解き放され新たな世界に巡り合えることがあります。そこへ導く一筋の光明が『公案禅』という論理です。
その昔、禅宗では真偽を解き明かすロジックとして公案禅という手法により、論理の思考法の鍛錬を重ねていました。ご承知の通り茶道は禅と深い関わりをもっています。お茶を隠れ蓑にして禅を説くと言われるほど茶道の底流には禅の教えが色濃く息づいています。公案禅もそのひとつです。それでは、お茶にまつわる公案禅を訪ねることにいたします。

禅

江戸中期、臨済宗の中興の祖といわれた白隠慧鶴(はくいんえかく)禅師が創案した公案禅に『隻手(せきしゅ)の音声(おんじょう)』という不可思議な禅問答(挨拶)があります。
それは「両掌(りょうしゅう)を打って音声あり、ところで隻手にはどんな音声があるのか?」という頭を抱えるほどの難問です。
両掌とは両手のことで、隻手とは片手のことです。そして、音声とは鳴り響く音のことです。つまり「左右の両の手を打ち合わせると音がしますが、片方の手ではどんな音がするのか?それを私に報告しなさい」というナンセンスなお尋ねです。
考えてもみてください。両の手のひらでこそ音が出るのであり、片手でどのような音が出るというのでしょう。常軌を逸した意地悪な問いに答えようがありません。しかし、この難題には謎を解き明かす聡明な意図があり、私たちの知性に深く迫る教えが潜んでいるのです。
事もあろうに、白隠禅師は鳴らない音を聞けと言います。耳で聞こうとしても頭で考えても聞くことの出来ない音を聞けと言うのですから、この無理難題は禅の真骨頂そのものです。
そこで前もって公案の種明かしをしておきます。この問答の真意には、心の耳で聞くという論理展開の大切さに目覚めよとの教えがありました。両手を打って鳴る音を聞くのは当り前のことですが、片手で鳴らす音を聞くには両の耳では叶わず、心の耳つまり『心耳(しんじ)』をもってでなければ聞くことは出来ません。そのためには「聞くことは無理だ」という囚われの心を脱却し、明鏡止水の境地に心を運びなさいと教えています。そうすれば「音なき音」は自然と心の耳で聞き取ることが出来ると言うのです。

て

そこで、皆さまには実際に体験していただきましょう。それでは、ご自身で両の手を打ってみてください。続いて今度は片手だけで打ってみてください。どうですか、聞こえましたか?聞き取るには、あらかじめ心積もりが必要です。両手と片手のそれぞれを異なる手段として区別せず、双方を分け隔てなく同等に捉えることが出来れば、心にしっかりと「音なき音」が聞こえてくるはずです。夢のような無音の響きの体験はいかがでしたか…。
この公案禅の根本を推考すれば新たに見えてくる世界があります。それは「隻手の音声」の論理をもって日常の判断や思考である思慮分別の固定観念から心を離し、物事の本質や道理を心の糧として『正邪』や『善悪』を識別できる良心を養いなさいという崇高な教えです。
また更に、白隠禅師は心耳(しんじ)の道理と共に心眼(しんがん)についても教えを説いています。心眼つまり心の眼とは、肉眼では見ることの出来ない精神世界であり「姿なき姿」を心の眼で見ることを意味しています。この教えは物事の真の姿を見極める心の眼(心眼)を養うことの大切さを説いているのです。
とある茶席でのエピソードです。利休は首の長い鶴一声(つるのひとこえ)という花入れに、なんと花を生けずに水を満々と注ぎ入れ、それを床の間に据えて客人を迎えています。
有るべき花が無いという常識を超えた床飾りに、さぞかし客人は驚いたに違いありません。利休はあえて花を飾らぬ風情をポジティブに捉え、客人には自らの心の眼(心眼)をもって自由に花を生けてもらおうとの趣向で茶室をしつらえています。いかにも利休らしい型破りの楽しい茶席です。この情景こそが、簡素簡略を重んじる「わび茶」の精神でもあります。
まさに、現代に守り伝えられた日本文化の実相ともいえましょう。

ことり

桜散る丘に朝の爽やかな風が流れ、どこからともなく小鳥たちの楽しげな歌声が届きます。喜び戯れる小鳥たちのさえずりに、姿なき小鳥の姿がわが身のまぶたに美しく浮かびます。
利休の花のない茶席は「隻手の音声」の奥義を、無花の花入れに託して語っているのです。