【 正座の誕生秘話 】
2023/05/19
幼い頃、わが家にお客さまが来られた際に祖母から「お行儀よくちゃんと座ってごあいさつをしなさい」といさめられ、慣れない正座でお出迎えをしていました。また護身用に始めた武道でも同じく正座による礼儀作法から教えを受けました。そして事もあろうに美味しいお菓子がもらえるとほだされ、何も知らずに始めた茶道の稽古も所作にまつわる躾からでした。幼い私には足のしびれる正座の姿勢が辛くてなりません。よく反抗をしたものです。
さて、日常の様々なシーンで慣習となっている日本の礼儀作法ですが、いつどのような経緯で日本文化として成り立っていったのでしょうか。その歴史を訪ねることにいたします。
時は約1200年前の平安時代にさかのぼります。日本の古式礼法である礼儀作法は皇家礼法に由来します。当時、朝廷の儀式や祭りなどの決まり事は、古く皇家に伝わる礼法に基づくものでした。有職故実(ゆうそくこじつ)を尊重していた皇族たちは、この教えに従い諸事を営んでいました。この礼法が日本の礼儀作法の起源といわれています。
皇家礼法は、小野宮家や九条家などが流儀を制定しています。やがて鎌倉時代になると源氏の小笠原長清(おがさわらながきよ)が皇家礼法を手本に「武家流」の儀式礼法を創り出しています。そして、室町の時代に入ると第8代将軍の足利義政は平家の流れをくむ伊勢貞親(いせさだちか)に武家流の礼法を詳細に整備させ、さらに江戸時代を迎えると小笠原家と伊勢家の両家が、日本特有の礼儀作法を完成させたと言い伝えられています。
高名な礼法家の一派に小笠原流があります。弓道と馬術の法に礼法を加え「弓・馬・礼」の三法をもって流派を起こし小笠原宗家がこの礼法を守ってきました。宗家の家伝には「礼道の要は心を練る修練であり、礼をもって端座(正座)すれば凶刃剣を取りて向かうとも害を加うることかなわず」との教えがあります。つまり「礼法をわきまえていれば、怖れる敵などは存在しない。努めて修練を重ねなさい」という武勇にまつわる礼道の教示です。
しかし、小笠原宗家が日本礼法の師範を独占していたわけではありません。小笠原流は歴史上いくつか分派しています。そのために一族の家系によって異なった独自の教えが伝播されているのです。それは小笠原流といえども同族でありながら家系によって礼法が異なることを意味しています。
一例に、九州豊津の小笠原藩の礼法が福島の会津武士の育成に採用されています。その教えの内容は、次の『九段』に及びます。
【一段】配膳【二段】鳥目(ちょうもく=金銭)・受渡し【三段】太刀・折紙・熨斗(のし)の受渡し【四段】折り方・結び方【五段】軍令・歩射礼・騎射礼と続きます。
五段以上の修得には宗家と誓詞を交わす必要があります。宗家からの許諾後に応答や会釈・饗応と進み、最後には厳粛な「切腹作法」の教授に至ります。
ところで行儀作法の基本的な最たる立ち居振る舞いは、正しい座り方である『正座』です。
現在、私たちの生活様式はテーブルやソファなどとすっかり洋式化が浸透し、和式の環境が遠のいています。こうした中にあって日本の伝統的な神事や仏事、さらに芸道や武道の世界では、正式な座法としての「正座」は必須の身構えとなっています。
そもそも、この正座の風習は奈良時代に仏事とともに中国から伝わってきた座り方です。
それまでの日本には、正座のしきたりは有りませんでした。男女ともに片方の膝(ひざ)を立てて座っていたようです。それが鎌倉時代になると『禅』の影響により座禅の座法である結跏趺坐(けっかふざ)のくずれ型である胡坐(あぐら)の座り方が広まっています。
昔の大和絵や江戸の浮世絵などで見られるように、歴史上の人物の座り姿は基本的に身分を問わず「あぐら」の姿で安座をしています。
女性も同じようにあぐら姿です。平安の女性貴族や宮廷で働く女性の正装は十二単でした。その重さはなんと約20㎏。とてもではないですが正座では重圧に耐えられません。また、女性が独りでくつろいでいるときには、正座を崩した「横座り」なども見受けられます。
つまるところ、当時は苦痛を伴う不自然な正座様式は存在していなかったのです。
なんとも不自由な正座ですが、この座法の起こりは武家社会に端を発しています。江戸初期に徳川幕府は大名支配の手段として参勤交代の制度に「小笠原流礼法」を採用し、非武装の正座が公式の作法となっています。特に第3代将軍の家光は家臣に裏切られることを非常に警戒していたといわれています。そこで目の前にいる家臣が急に襲ってこないようにと足がしびれてすぐに立てない正座を命じたとの逸話が残ります。また一説には病弱な家光が幼少の頃に教育係の春日局から躾を目的に背筋を伸ばした美しい座り方の跪坐(きざ)、いわゆる正座を強いられ、足がしびれた辛い経験から家臣にも正座を命じるようになったとも語り継がれています。とはいえ当初は限られた上流武家の座法に過ぎず、大衆化には至っていませんが、江戸中期になると武家との交流の深い商人にも礼法が求められるようになりました。そのような経緯で民衆にも武家の礼法である正座が広がっていきました。
それにしても日本の伝統的な座り方といわれる正座ですが、どうしてこのように不自由な座り方が一般社会に受け入れられていったのでしょうか。そもそも昔の人々が、こんなにも辛い座り方を日常的にしていたとは想像が及びません。にわかには信じがたい実状に子どもの頃は不思議に思ったものでした。実は、この謎を解くカギが明治期にありました。
時が明治になると国策文化なるものが盛んに国から奨励され、新たな日本文化が次々と誕生しています。この不自然な正座が日常に定着したのも明治中期のことになります。
明治36年、旧文部省により国定修身(道徳)教育に正座が指導されています。その時に、従来の「跪坐」という名の印象が良くないので古神道でいう正しい座り方の正座(まさくら)と呼称を改め、さらにそれを音読みにして正座(せいざ)という呼び名が生まれています。このような社会背景により、現在の日本人の行動様式である「正座」が一般化しています。
正座が伝統的な生活文化といわれてはいますが、それほど昔のことではないのです。
明治政府は文化・芸術から教育に至るまでの言説に干渉してきました。それは茶道も例外ではありません。その影響もあって、正座でのお茶の点前は明治期に始められています。
元来、利休をはじめ孫の宗旦も胡坐(あぐら)でお茶を点てています。利休の愛弟子の細川三斎には禅院の四頭茶礼での構えである片膝立ての点前が観られます。江戸千家の川上不白にも正座の記録はありません。明治以前は、茶の湯での座姿は自由な安座(あんざ)が一様に認められ、茶席の秩序は成り立っていたようです。
茶道の処々の作法は、自らの心を揺り動かす情念を一つずつ拭い除けるための「手段」であり「目的」ではありません。お点前上の所作は目的地にたどり着くための手段に過ぎません。ですから、お茶のそこかしこにある所作に心酔し本来の目的を見失ってはならないのです。
足が不自由であれば無理に正座にこだわる必要はありません。安座でお茶に親しむことがあっても無礼には当たりません。その配慮から生まれた新たなスタイルが「立礼作法」です。
利休は『お茶に所作礼法、構うこと無し』と説いています。
明治5年に考案された立礼作法ですが、座礼と立礼を並列に捉える寛容さに利休のお茶に対するおおらかな真意が息づいているように映ります。
時代は生き物。歴史は時と場に応じて変化をしながら流れています。今流の固定観念に振り回されず時々の変容を受け入れ、しなやかな心で時流に適応することが明るい未来につながるように思えます。
近づく初夏の光と風の中に、かつてない新たな時代の足音が聞こえてくるようです…。
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