世阿弥の『 初心忘るべからず 』

2023/03/22

誰でも、初めての習い事に挑むときは気持ちが高ぶるものです。過ぎた緊張により思いもよらぬアクシデントに見舞われることがあります。かくいう私もその経験者のひとりです。
習い事は、まずその道の精通者から教えを受け経験を積んでいきますが、やがて時が経つにつれ気も緩み新たな障壁に直面します。そこには「慣れ」という落とし穴があるからです。
そのような苦境を乗り越えるのに、世阿弥の教えが解決のヒントになるように思います。
およそ600年前、能楽の世阿弥が晩年に著した奥書に『花鏡』がありますが、その一節には「観世当家に万能一徳の一句あり、すなわち初心忘るべからず」と述べられています。
私たちがよく耳にする「初心忘るべからず」という格言は、世阿弥の教えなのです。
世阿弥は、能楽の芸の道を歩む中でたびたび「初心」の大切さを説いています。
混沌とした現在に、この教えが私たちの暮らしに明るい道標となるような気がします。
この「初心」の教えは3つのテーマに分けられ、次のように語られています。

【 第一条 】是非の初心忘るべからず
初心は、自らの芸の力量がどのくらい上達したかを知る大事な「基準」となるものです。
習い始めのころは、私たちの思いはいたって謙虚で真剣な心持ちに満ちあふれています。
この心意気が、本来の「初心の姿」です。
仕事でもスポーツでも何事においても言えることですが、私たちは時が流れるごとに初心の熱い思いは薄れるものです。しだいに物事への作法にも慢心が生まれ、ある程度の技量が身に付いてくると心の油断から予期せぬ失敗を招きかねません。
世阿弥は、特に年若い演者に初心の大切さを厳しく説いています。人は、気付かないうちに独歩しがちです。残念なことに、その芸は初期の段階へと退歩した演舞に回帰しています。
たとえ人々から舞い姿を褒められ認められたとしても、その舞いは一時的な初歩の姿に過ぎません。芸位を高めていくためには、若い未熟なころに経験した当時の初心を思い返し、さらなる工夫を重ねていかなければなりません。その自覚がとても重要なのです。
そのような理由から、第一条の『是非の初心忘るべからず』の末尾には「未熟な若き人は、ぜひ今の初心を忘れてはならない」と、強い戒めの言葉で結んでいます。
私たちの魅力は、自らの欠点や弱点から学ぶことで生まれます。初心に耳を澄ませ若いあのころの純真な自分を取り戻すことが出来れば、私たちの魅力は芽吹いていくのです。
能舞台

【 第二条 】時々の初心忘るべからず
人生の階段は、のぼるごとに景色が変わります。若いころに読んでいた懐かしい本を久しぶりに読み返してみると、当時とは違った新たな発見や感動を覚えます。その時々の感受性には世代間で異なる審美の心が働くのですね。世阿弥が説く「時々の初心忘るべからず」とは、この世代ごとに異なるそれぞれの尊い「初心」の大切さを教えています。
芸の道に入り間もない時期から青春期、盛年期、壮年期を迎えやがて老齢に至るまで、その時々の舞い姿には歳に応じた風情が備わるものです。もし時々の初心を忘れ、その場限りの風態で能を演じていたとすれば、その歳に限定された一過的な芸態でしかありません。
しかし、それぞれの世代に修得した初心の芸を忘れずに、当時の一態一態を思い起こしながら今の演舞に積み重ねることがかなえば、歳を超えたその芸風は多様性に富んだ光輝な能となるのは道理です。つまり、その時々の過ぎ去った瞬間に立ち返り、当時の初心を重積すれば芸の妙味は無尽の豊かさに満ちた演舞となり、新たな美しい花となるのです。
だから、時々に修得した初心をけして忘れてはなりません。
世阿弥が語る第二条の『時々の初心忘るべからず』は、世代ごとに養った芸技の上達法を説いていますが、現在の日常生活にも通じる処世の導きのように聞こえてきます。
あの日あの時の「初心」を忘れずに、その時々の尊い学びを大切に守りながら暮らしていれば、かけがえのない心豊かな人生が訪れるのです。
森林

【 第三条 】老後の初心忘るべからず
人は誰でも歳をとれば、遅かれ早かれ多かれ少なかれ体力は衰えます。かつてのように激しい動きもかなわず、視力はかすみ、発する声も張りを失います。それが自然の摂理です。
世阿弥は、意外にも「老齢に至れば、もはやするべき手立ては無い」と明言しています。
それは今までの技芸がいずれも通用しないことを意味しています。そこに求められる唯一の姿とは、過去の演舞にこだわらず老いてなお新たな態度で舞いに挑むことです。いわば、老いてこそ成し得る至上の舞いを描き出すことへの導きでした。
つまり、手立て(表現方法)が無いほどの稀に見る演舞こそが、老いて初めて知る風態であり、老後の初心が成せる心技だと語っています。
人々を魅了する翁の摩訶不思議な「夢幻能」の余情は、この歳になって初めて花を咲かせることを可能にした最奥の演舞です。老境に至れば、無理のない老いに応じた風情で美しく舞い散る姿を演じるのです。それが老熟の演者だけに許された美芸の極みとなるわけです。
扇

『花鏡』に語る「初心忘るべからず」は、芸道に入門し現在までの各世代に得た初心を最後まで尽きることなく積み重ねれば、この演舞の時空はいつも「新しい時のはじまり」となり、一瞬が永遠となるのです。この思いを大切にすれば能楽への夢は絶えることがありません。
だから上達の限界を人には見せず、秘する花となって生涯を過ごすことを当家芸道の奥義として子孫を導くのですと、世阿弥は能楽の神髄を書に遺しています。
本来『花鏡』は門外不出の秘伝書でしたが、奇縁により秘密の扉が開きました。
この世阿弥の初心に対する心得には、たとえ心に雨が降る日でも私たちに明るい希望をもたらす教えがあるように思えてなりません。