書は、心の発露

2022/09/22

近ごろ、めっきり文字を書くことが少なくなりました。

便利さゆえに簡単なメモですら手軽にスマホやパソコンで対処しています。これからますます文字への愛着が日常から離れていくように思えます。そこで、忘れかけた『書』に思いを運んでみることにいたします。

書は、心を映す鏡といわれています。私たちの心は喜怒哀楽と、いつもシーソーのように揺れ動いています。手書きの書には、そのように様々と変容する心情が映し出されます。
喜びの手紙には、こぼれんばかりの嬉しさに運筆は踊ります。また、悲しいときには涙をそそるような思いが筆へと伝わり、文脈のそこかしこに愁いが浮かびます。
書には、流れる雲のように千変万化する私たちの心模様が自然と現れます。
ですから、直筆が上手とか下手とかは論外です。つまり、書とは自由な心の発露なのです。

床の間


茶会では、茶席に入るとまず初めに床の間に掛けられた『書』に挨拶をします。席主の歓迎の思いが書に託されているので、私たちは席主の内なる声をその流筆から受け取るわけです。その大切さから、お茶の一番の道具は掛け軸の墨蹟だと語られています。
事の起こりは茶祖の村田珠光です。珠光が師の一休禅師から墨蹟を授けられて以来、茶席の床の間に墨蹟を掛ける風習が始まっています。また利休の師である武野紹鴎は、歌人でもあり卓越した書家でもありました。そのようなことで、お茶と書は深い結びつきがあります。
ところで、書の拝見は単に文字を読むことではありません。書は心の実像です。筆者の真意は筆へと運ばれ、筆は文字にその心の姿を描き出しています。私たちは、その書から筆者の奥深い内情を読心するわけです。
筆を持つことの少なくなった現代に、あらためて筆が物語る書の世界を訪ねてみます。


『書』は約2000年前、中国の後漢時代に紙の発明と筆の発達により盛んになりました。
538年、朝鮮半島の百済の聖明王から釈迦の仏像と一緒に三巻の経典が日本に届きました。いわゆる『仏教伝来』です。ところが誰一人として文字の読み方が分かりません。そこで、日本で最初に女性として仏門に出家した善信尼(ぜんしんに)が、百済へ渡り文字の勉強に行っています。それを機に、わが国に文字の文化が始まりました。
610年には、高句麗(古代朝鮮)の僧侶である曇徴(どんちょう)が紙と墨を日本に伝え、経典の書き写し(写経)がおこなわれるようになりました。
なお6世紀後期の日本では、漢字を仮名的に表す『真仮名』が創られています。その文字は8世紀の奈良時代になると国語の表記に用いられ、特に『万葉集』に多く使われていたので『万葉仮名』ともいわれています。やがて平安時代には草仮名(平仮名の前身)が創作され、能書家の藤原行成(ふじわらのゆきなり)を始祖とする世尊寺流(せぞんじりゅう)により日本書法が大成され、和様の『書道』が宮廷貴族や僧侶、武家へと広がっていきました。

蓮の葉

古式の書道では、まず心身を清めることから始めます。
筆者は沐浴で体を清め、手を洗い、口をすすぎ、そして衣服をただします。この行を『潔斎』といいます。書堂内には麗しい空香が静かに焚かれています。
筆者は、入堂し書机の前に着座し「開経偈」「般若心経」「書道観念文」の経をとなえ、合掌礼拝で心を神仏に授けます。正式には和紙で作った覆面瓠(ふくめんこ)を掛けます。これは息が書面に直接かからないように配慮した口を覆うマスクのような物です。しかし、現代では略されているようですが、神聖な献茶式などでも覆面瓠の装着は基本です。
そして、硯(すずり)に水をそそぎます。先人たちは早朝の蓮の葉などに溜まる朝露の雫を集め、その水滴を硯にそそぎ書に用いていました。その水が用立てない場合は、朝一番に組んだ清水を使います。
墨は、油煙や松の根を燃やした煤(すす)をニカワで練り固めた物です。墨を静かに硯面で滑らせ墨汁を作ります。墨の発色には水加減で淡い灰色から漆黒に至る過程に5つの色彩が現れます。古来、それを『墨五彩』といっています。
書面を前に合掌一礼し、まずは心の中で文字を描きます。そして愛用の筆を両手で取り上げ、筆の穂先に墨を吸い上げます。その筆を書面に運び、心中で描いた文字の姿を写します。
『弘法は筆を選ばず』との逸話がありますが、弘法大師(空海・俗名:佐伯眞魚)も好みの奈良筆を愛用していました。
筆の持ち姿には、3通りあります。細字の場合は「枕腕法」の構えです。左手を枕にして、その上に筆を持った右手を乗せて書く姿です。中字の場合は「提腕法」の構えです。左手で書面の端を押さえ、右手を書面に添えながら書く姿です。太字の場合は「懸腕法」の構えです。右手を宙に浮かせて書く姿です。
書が終われば、最後の礼法として再び「回向文」の読経をもって、報恩の念を神仏にたむけます。そして、筆者は合掌礼拝し静かに書堂から退席します。
この一連の流れが『一字入魂』の古式日本書道の奥義となっています。

花鳥風月

いつの世も心と体は一体(心身一如)として考えられてきました。この心身両者のバランスをお茶の世界では、とても大切にしています。
つまり心を静かに清めることは、体の動きも自然と流麗な姿に整っていくことでもあります。ここにお茶の作法で語る「心と体」の和合の理が存在します。体の動きは静まる心とともに無駄で騒がしい動作を消していき、なんら滞ることのない美しい流れだけが自らの姿となり体現されていきます。この観点に意識を結びつけているのが「書」の世界です。
書とは、つまるところ線です。その線が自由な心の発露となり癒しのリズムを奏でます。
清秋のみぎり、筆に心を遊ばせ書に親しんでみてはいかがでしょうか。新たな自分に出会えることでしょう。