干支「壬寅」のお話  ─後編─

2022/02/07

「ゆく川の 流れは絶えずして しかも もとの水にあらず~」とは、あまりにも有名な「方丈記」の冒頭です。湖沼と違い、水の流れがあるから川である。とうとうと流れる川面(かわも)を見つめた時、変わらないような姿でありながら、今の水は先ほどの水とは違う。鴨長明は、川の流れをもって、目には見えない時世と人世の流れを説いているのではないか。すると、前述した「卦」が、なにやら意味深いものに思えてしまう。同じように新年を迎えるも、昨年とは違う時世・人世の流れに身を置いている。そう、川の流れを山が抑え込んでいた昨年とは違い、今年の「坤卦」は、川が大地を覆うかのように広がり、潤/演(うるお)しているかのように見えなくもない。

2019年は、時世「己(紀)」が教えてくれるように、ひとつの区切りとして人倫の道を外さぬよう、なりふり構わず頑張ったことを省み、紀識(きしき=しるすこと)し紀念(きねん=こころにとどめて忘れないこと)することを促すのだと。忘れ去るのではなく、真摯に受け止め真実の核心となし、次へ引き継いでゆく。
「庚」は「更」であることから、2020年は「更始(こうし)=古いものを捨て、初めからやり直すこと」の年でした。時世は成長から継承へと移る中で、先行きの見えない世相の一年でした。賢人は我々に人世は「子」であると教えてくれました。「子」は「孳」であり「坎(かん)」でもある。「孳孳(しし)」とは勤勉に努めることを意味します。「坎」の卦が上下に姿を見せる、六十四卦でいう「坎下坎上(かんげかんじょう)=坎為水」は、「重なる険難はあるが、真実をもって行動すればうまくいく。」ということを象っているといいます。

2021年は「辛丑」。時世の「辛」には、「辛艱(しんかん)=苦しむ・難儀する」や「辛苦」「辛酸」など厳しい単語が多いもの。未曾有のコロナウイルス災禍は今なお猛威を振るっていることもあり、この漢字が心に突き刺さります。全ての希望に楔(くさび)を打ち込んでくる。しかし、「辛」は「新」でもある。何事も新しいことの門出には苦労や厳しさがつきものです。「新地(さらち)」となった時世には、新しいものが何でもいくらでも植えることができる。しかし、どのような種を植えるかの取捨選択は各々にまかせられている。
そして今年2022年は「壬寅」。時世の「壬」は「妊」であり、人の妊娠の姿を象る。人世の「寅」は「演」であり、物を演(ひ)いて誕生させるという意味も含む。偶然なのか必然なのか、時世も人世も新しいものが誕生していることを暗示している。人智及ばぬものが時世であり、人がどこうできるようなものではありません。2020年の「辛」を受け注いだ「壬」、新しい時世が誕生してはいるものの、まだまだ赤子のような姿で、どのような性格を持ち合わせているのかは定かではありません。
そして、時世と歩調を合わせるかのように、それぞれの人世も育まれているかのようです。ついに地に植えた「種」が動き出す。混沌とした世界の中で、もがき苦しみ行動してきたことが実を結び、種となす。陰の気が極まった姿が「壬」であるならば、八卦では陰気そのものである「坤卦」ということ。「坤卦」の象意が「地」であるのであれば、時世は我々に肥沃な地を用意してくれたことになる。そして、川がその大地を演(うるお)すことで、我々個々が育んだ種の芽が演出する(=新たに生まれる)。
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古代中国で生まれた五行説では、時世の「壬」は「水」であり、人世の「寅」は「木」である。水は木を生み出すという…五行相生(ごぎょうそうじょう)という相性のいい関係。言葉遊びのように思える干支の話も、ここまでくると何やら意味深いものと思えてしまうもの。しかし、ただただ時世に流されただけの人世であれば芽を出さないのかもしれません。芽が出だとしても、どのような芽で、どのように成長し実を成すのかは、千差万別であり、その人の努力の賜物ということなのでしょうか。
昨年の「艮卦」は、止まるべき時に止まり、行うべき時には行う。動くも止まるも、時(天命)を見失わなければ、その道の見通しは明るい、と伝えていた。では今年の「坤卦」は?従順さであらゆる事柄を受け入れることにより、大いに順調にゆく、そう教えてくれる。「寅」の漢字が、陰が極まり陽気が誕生するも、ウ冠(=屋根)の陰気が強く突き抜けることができないさまであれば、地が潤い、各々の種が芽吹き始めるも、時世に寄り添うように身をゆだねながら、機を待てといっているのかもしれません。
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「ゆく川の 流れは絶えずして しかも もとの水にあらず~」、そう「時(とき)」は止まることなく流れ続けています。「待て」と言われても…すでに賽は投げられた…いや、種が蒔(ま)かれた。水の流れのように、一時に集中するのではなく絶え間なく努力を続けること、そして水でいう「水平」の如き確固たる準則を、いうなれば信念を持って、今年の時世を乗り切りなさいと教えてくれている気がします。新しい時世と人世がその姿を見せるのは、もう少し時が経たなければならないのかもしれません。
1984年の「甲子(きのえね)」に幕開けした60年の世相のサイクル。「世」の字には30年という意味が込められていると聞きます。60年の中に30年の2つの世相。2014年「甲午(きのえうま)」からはすでに後半の世相が始まっています。世相における栄枯盛衰は世の常であり、これを乗り越えなくてはなりません。その先で、我々は宝の地図(人世のさらなる高み)を必ず見つけることができるはずです。
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蛇足ながら、「寅」は「演」であると前述しました。そして、この「演」は「延」であると「釈名」は書き遺しています。この字は、「長くする」や「続く」に加え、「蔓延して広がる」という意味が込められています。皆様は、まっさきに「コロナウイルス」を思い浮かべたのではないでしょうか。
1年ほど前に、医薬品製造に携わっていた方から、このようなことを教えてくれました。「ウイルスも馬鹿じゃないからね、毒性が強いと感染した人が亡くなってしまうことで自滅してしまう。そこで、追々は毒性を弱くして感染力を強くすることになる。」なるほど!昨今のコロナウイルスのオミクロン株が、すでにその兆候をみせているようでなりません。
100年ほど前にパンデミックを起こしたスペイン風邪も、姿を変えながらインフルエンザウイルスとして、いまだ地球上に存在しているという。ウイルスを根絶することが難しいのであれば、上手く付き合ってゆくしかありません。そこで、「蔓延する」の主語をこう変えてみてはいかがでしょうか?「コロナウイルス」から「コロナウイルス対策」へと。病は気からとはよく言ったもので、心の持ちようひとつで、未来は変わってゆくかもしれません。さて、皆様はどう思われますか?
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本文中に出てくる用語を少しだけご紹介させていただきます。
たびたび出てくる「説文解字」と「釈名」という名前。本というよりも辞典と言い表した方が良いかもしれません。しかし、これらが編纂されたのは、古代中国でした。「説文解字」は紀元後100年頃、六書(りくしょ)の区分に基づき、「象形」「指事(指示ではないです)」「会意」「形声」に大別され、さらに偏旁冠脚(へんぼうかんきゃく)によって分類されています。
「象形文字」は、実物を絵として描き、その形体に沿って曲げた文字。「指事文字」とは、絵としては描きにくい物事や状態を点や線の組み合わせで表した文字をいい、「上」や「下」が分かりやすいと思います。十干の「己」は指事文字です。そして、「会意文字」は、既成の象形文字や指事文字を組み合わせたもの。例えば「休」は、「人」と「木」によって構成され、人が木に寄りかかって休むことから。干支の「壬」は指事文字、「寅」は会意文字です。
「偏旁冠脚」は、漢字を構成するパーツのこと。そのパーツの主要な部分を「部首」と定め、現在日本の漢和辞典は「康熙字典」の214種類を基本にしています。しかし、偏旁冠脚では、漢数字、十干や干支もこのパーツに含まれ、その分類区分は、「一」から始まり「亥」で終わる、総数が540です。数あるパーツの中から、殿(しんがり)を担ったのが「亥」です。十二支の最後もまた「亥」です。この後、さらに時は流れ紀元後200年頃、音義説によった声訓で語源解釈を行い編纂されたものが、「釈名」です。
万物を陰と陽にわける陰陽説と、自然と人事が「木・火・土・金・水」で成り立つとする五行説が合わさった考え方が、陰陽五行説です。兄(え)は陽で弟(と)は陰。陽と陰は、力の強弱ではなく、力の向く方向性の違いのこと。陽は外から内側へエネルギーを取り込むこと、陰は内側から外側へ発することだといいます。運の良い人とは、陽の人であり、外側から自分自身へ力を取り込んでいる人のこと。「運を呼び込め」とはよく耳にいたします。陰の人とは、運が悪いわけではなく、自分自身のみなぎるエネルギーを外に発している人のこと。一方が良くて、他方が悪いわけではなく、すべては陽と陰の組み合わせです。陰陽の太極図を思い浮かべていただきたいです。2つの魂のようなものが合わさって一つの円になる。一方が大きければ、他方は小さくなり、やはり円を形成するのです。森羅万象全てがこの道理に基づくといいます。

最後まで読んでいいただき、誠にありがとうございます。
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「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。