月を眺めて想うこと   ─前編─

2021/11/29

過ぎし2021年11月19日、日本では部分月食を眺めることができました。月が地球の影に入ることで起きる現象です。平面図で、太陽・地球・月と直線に並ぶ時におきる現象なため、満月の日ごとに月食がおきるように思うもの。しかし、地球が太陽を中心として公転している面と、月が地球を中心に公転して面は並行ではなく傾きがあるため、満月の度に地球の影に入るのではなく、地球の公転面に月の軌道が触れた時、その時が満月の位置であれば…月が地球の影に入り込む…
地球の公転は約365.24日。月の公転は約27.3日。地球が常に公転軌道上を動いているため、月に満ち欠けの周期は、少しだけ延びるように約29.5日となります、なるほど!さらに、地球も月も、楕円のような公転軌跡であり、惑星同士が近い時には、動きが早まり、離れるとゆっくりとなるという「ケプラーの法則」なるものがある。そして、前述したように地球の公転面から月の公転面が5.1°ほど傾いているため、空を見上げた時に太陽の軌跡(黄道)と月の軌跡(白道)は一致しない。全ての要素がそろった時に、月食という天体ショーが開催されます。
2
月の全てが地球の本影に入り込むのを「皆既食(かいきしょく)」、一部入るのが「部分食」です。さらに、本影ではなく半影だけに入るものが「半影食」。この半影食は、弱くはありますが太陽光が当たるのため、よくよく見比べてみると普段よりも暗いかな…ということのようです。
なんとなく、分かってきたような月食。日食との違いは、同じタイミングであり、どこからでも同じ形の月食であるということ。日食は、太陽の前に月が現れ、太陽光を遮(さえぎ)ることで起きる天体ショーです。そのため、数百kmも離れると、日食の形も状況も変わってきます。対して、月食は月の表面の表情のため、望む地によって変わることはありません。しかし、地球の自転軸(地軸)が傾いているため、月食を見ることのできる場所とそうではない場所がでてしまいます。
今回は、東北地方以北であれば、月食の始まりから見ることができたのですが、それ以南では月が姿をみせた時にはすでに月食が始まっていました。さらに、部分食であるにもかかわらず、月の約98%が本影に入り込んだ皆既食なみの月食。これほどの部分月食を日本で次に拝めるのは、遠く2086年11月21日のこと。その前に、2022年11月8日に皆既月食が訪れます。

3
古代中国の賢人は、「宇宙の万物は全て陰と陽の2つのエネルギーで構成されている」と喝破しました。これが陰陽説です。全てを2つに分類することで、森羅万象を説明することにいささか無理を感じますが、時を経ることで多くの要素が加味されてゆき、陰陽五行説が誕生します。この説が今でも活用されていることを思うと、なかなかな説得力があるのでしょう。もちろん自分は専門家ではないので詳細は語れませんが、気になるのが太陽と月の関係です。
相反する2つの事象を分けるこの陰陽説とは、一方が「善」で他方が「悪」という考えではなく、お互いが相互関係にあり、欠かせないものであること。表(陽)なくして、裏(陰)はない。活発・敏速な行動(陽)なくして、不活発・緩慢(陰)という概念は生まれない。こと、一日というものを考えると、昼(陽)があるから夜(陰)がある。そして、昼夜を代表する天体といえば、太陽(陽)と月(陰)ということになります。
カレンダーも時計もない時代から、北極圏や南極圏に見られる白夜のような現象を除いて、人類は太陽が姿を見せる時を一日の始まりとしていたはずです。そして、西の端に陽(ひ)が沈み、漆黒の闇夜が訪れる時、得も言われぬ輝きを放ちながら天空を巡るのが月。それぞれの動きを判断基準とした暦が発明されていることからも、太陽(陽)と月(陰)が陰陽説の判断基準の元になったのではないかと思うのです。前述した分類も、太陽と月から考えてゆくと、なんとなく納得してしまうものです。
4
雲に覆われ雨の日であっても、夜半よりは明るいもの。東の空が白々しくなるころに目覚め、西の空が紅(あか)くなるころに仕事を終える段取りを始める。夜の帳(とばり)がおりてくる頃には、一日の疲れを癒すかのように憩いのひとときを過ごし、床に就く。連綿と続いてきたこの生活様式は、電球の発明によって活動時間が夜へ夜へと移りゆくも、多くの人々にとっては、昔よりも夜長を楽しむぐらいで、さほど変わらないのではないでしょうか。
人間には、一日の生活リズムというものが「時計遺伝子」という形で細胞内に刻まれているといいます。これにより、自律神経の調整やホルモンの分泌、さらには臓器などの動きを掌(つかさど)り、生命と健康を維持している。これを我々は「体内時計」と言っています。面白いことに、この刻み込まれた体内時計の時間というものが、24.2時間なのだというのです。一日が24時間なために、日々を過ごすうちに「ズレ」が生じてくることになります。

5
では、人間はどのようにしてこの「ズレ」を解消しているのか?これを修正してくれるのが、太陽の陽射しなのだといいます。人間は、太陽の光を浴びることで、それとなく皮膚が感知し、体内時計の針を調整するのだというのです。生きとし生けるものには休眠が必要です。活動できる時間というのは限られたものであり、これにはもちろん個人差があるでしょう。10時間なのか12時間なのか?陽射しは、体内時計を○○時に調整するのではなく、限られた活動時間を始まったことを、体に指示をだしているのではないかと思うのです。
天気の良い日中に野原でぐっすり寝ていても、睡眠不足は解消するかもしれませんが、疲れがとれることはなく、かえって疲労感にさい悩まされるという経験はないですか?これは、身体の細胞が活動を促されてるために、「休息」はできても「休養」にはいたらないということなのでしょう。どれほど長時間、陽射しの降り注ぐ中で昼寝をしても、ただ単に「休憩」にしかなっていないのかもしれません。

6
日中の活動を癒し明日への活力を得るために、食事や休息をとるのは陽(ひ)も沈んだころ。空には満点の星が姿を見せます。中でも、冴えるような輝きをはなつ月は、どれほど人々を魅了したことでしょう。日ごとに姿を変えながら、時として姿を見せない日もありながら、我々は月の姿を眺め楽しむことができ、直視することはできない太陽とは対照的です。
屋戸(やど)で食事をしながらの語らいは、今日の思い出話や明日の予定などでしょうか。ふと外を眺めると、庭の樹々が白々しい光の中に影を落としている。まるで白砂のような光に誘われるかのように、外に赴くと…満天の夜空をゆっくりゆっくりと横切る月を望むことができます。
吸い込まれるような漆黒の闇がどこまでも続くかのような夜の空。星々が輝くも、月は他を圧倒するほどの光をはなちながらゆっくりゆっくりと暗天の中を移動している…。青天の太陽を仰ぎ見ることはできませんが、月は凝視することができる上に、その日その日で違う美しい姿で我々を照らしています。三日月、小望月(こもちづき)、望(もち)、十六夜(いざよい)、立待ち月、居待ち月、臥し待ち月…古人は月の姿に愛称をつけ楽しんでいたのでしょう。

誰に何かを告げられるわけでもない、月が何かを語るわけでもない、我々が月に魅せられてしまったからなのか、知らず知らずのうちに自分自身の人生を省み、未来に思いを馳せてしまうものです。人にとって憩いのひとときであるからこそ、心穏やかに月を眺め、想いに耽(ふけ)ることができる。心躍る思いか沈んだ思いとなるかは、その日の自分の行動如何によるかと。
神々(こうごう)しく輝く満月の時などは、見続けているうちに手に届きそうにさえ思えてしまうものです。もちろん手が届くわけもなく、物干し竿でも遠く及ばぬところに月は存在します。さらに、星々はさらに遥か彼方(かなた)に…なんと自分は小さな存在なのか…そう思わずにはいられません。この空間を意識することで、自分の存在を認識でき、存在価値が見出せる。月は我々に、考える時を与えてくれているのでしょう。