お茶の温故知新

2021/11/09

街々が、キャメルカラーに染まるこの秋。

青空に浮かぶ白い雲や風の流れを眺めていると、どこか旅にさそわれます。
そこで、お茶の歴史を訪ねる心の旅に出かけることにいたします。
旅の出発地は悠久の都、太古の中国です。深い森のような大昔の物語です。

【 お茶のルーツ 】

伝説によれば、お茶の起源は今から約5000年前の紀元前3000年頃にさかのぼります。
中国最古の薬学者として名高い炎帝神農という人物が史上初めてお茶の栽培方法を発明したと伝わります。太古の中国では、この頃すでに喫茶の風習が暮らしの中に息づいていたのです。
神農は、お茶の薬用効果を調べ生薬(漢方薬)や農耕技術などを人々に伝えやがて後漢時代の頃に神農の口伝は成文化され、薬物書の『神農本草経』が世に誕生しています。
茶器

歳月はめぐり、8世紀の唐の時代にタイムスリップです。
唐の都に、民衆から茶聖と慕われた陸羽という人物が現れました。
陸羽は、神農が説く『神農本草経』の書簡を検証し、卓越した探求心によりお茶の来歴をはじめ茶木の植物性や植栽・収穫、茶葉の精製から飲料方法、さらにお茶の心得などを丹念にまとめました。その茶書が『茶経』です。
今に見る抹茶製法や「茶道」という用語も、この陸羽から生まれています。糖分が発酵しワインが出来るように、お茶の文化も長い時の流れに醸成していきました。
中国の茶歴をたどると、唐の中期になると陸羽の『茶経』とともに仏教(禅)や儒教・道教などのかかわりにより、茶文化が咲き誇り人々に倫理と喜びをもたらしました。次の宋王朝期には抹茶の文化は全盛期を迎えています。
ところが元から明に移ると、今まで栄えてきた抹茶の礼法は衰退し、新たな「煎茶文化」へと変遷を遂げています。そして、清時代に大事変が起こりました。最後の皇帝として王朝の灯火は消えゆく運命をたどっているのです。
殷時代から続いた約4600年の宮廷文化は、ここで終焉を迎えています。
近代の中国では、抹茶の文化は衰え「煎茶文化」が国民の暮らしに溶け込み中国六大煎茶の緑茶・白茶・青茶・黒茶・黄茶・紅茶が常飲されています。
寂しいことに、悠久から愛されてきた抹茶の文化は見る影もありません。ところが、奇遇にも太古中国の抹茶文化が、今も「日本茶道」に脈々と敬承されていたのです。

【 日本茶道の原風景 】

日本のお茶の文化は、天平文化が謳歌した8世紀の奈良時代に始まります。
唐に栄えた陸羽の茶文化は、奈良東大寺の正倉院に重宝な薬草として経巻とともに伝えられ『正倉院文書』には「お茶十五束」と記載された奉納書が残されています。
史録では、聖武天皇や寺院でお茶の作法が儀礼化されていたとのことです。
しかし、その頃のお茶は宮廷や高僧の世界でおごそかに営まれ、世に広まることはありませんでした。
当初、寺院などで催されていた儀礼的なお茶でしたが、やがて五摂家たちがお茶の儀礼を模倣するようになり、お茶の形態が貴族的で豪華な茶の湯へと華やいでいきました。
奈良→平安→鎌倉と世は巡り、通説では鎌倉時代に臨済宗開祖の明庵栄西が抹茶の碾茶法を日本に伝えたという説がありますが、12世紀に栄西が宋へ渡る以前の奈良時代には、すでに日本の寺院では「茶礼」や「行茶」の茶儀式がおこなわれています。
栄西の功績は、むしろ日本で初めての『喫茶養生記』を記述し、その医学書をもってお茶の薬用効果を広く民衆に啓発したことにあります。ところで、栄西開山の建仁寺には創建当初から伝わる四頭茶礼(よつがしらちゃれい)というお茶の儀礼作法が現存しています。
四頭茶礼とは、日本の茶道が成立する以前の作法で、唐時代の「立礼作法」から現代の畳の上でおこなう「座礼作法」へと移り変わる過渡期の姿が見て取れます。つまり、日本茶道の原風景がここにあるわけです。

【 利休の逸話 】

時代が鎌倉から足利将軍の室町になると、表面的な華々しいお茶が隆盛を極めています。その対極にある内面的な心の美学を追求したのが、茶祖と慕われる村田珠光です。その珠光の師が大徳寺の一休宗純です。今も人々に愛される、あの「一休さん」です。
一休は『茶禅一味』の禅語により、珠光に茶の道は「禅」を伝える手段であと説いています。
また『喫茶去』の禅問答では、貧富の差別を無くし人様に優しく接する温和な心、つまり「おもてなしの心」を大切にとお茶の心構えを伝えています。
一休いわく「茶道とは禅宗の『行』です。茶の道は単なる遊行ではなく禅僧が仏に使える『行』を俗人がおこなうものです。それを忘れずに、茶の道を歩みなさい」と、やさしく教え導いています。
禅寺でのお茶の作法にも精通していた珠光ですが、何よりも一休さんの人柄と禅行に得心した珠光は、華やかに豪遊する貴族的なお茶の様相から新しい茶の湯を創作していきました。そのお茶とは格調の高い唐物に精神性を求めながらも東山文化の華やかさを崩すことでお茶を民衆へと導くことでした。

珠光の『和敬清寂』を旨とする草庵式の侘茶(わびちゃ)をあがめ、さらに工夫を重ねていったのが、堺の商家に生まれた武野紹鴎です。
師匠である珠光の精神を継承しながら彼独自の芸術的な感性を加え、茶の湯の世界を豊かに深めていきました。
その紹鴎から、お茶の指南を受けた門人の一人に田中与四郎がいました。
彼こそが、誰もが知る千利休です。
利休は、古渓禅師のもとで禅行を重ね、やがて茶の湯を大成させています。
千利休

お茶は、時代とともに日本の歴史に彩られた時々の文化が近づいては遠のきながら、様々な変容を遂げていきました。
永遠に変わらないものと、時に応じて変化するものとの両極に立脚し、風雅な気品を求めて変化し続けていくことこそが、お茶の不変的な価値観です。
しかし、人間の性(さが)は無常です。やがて、利休の高志なお茶の教えも形骸化していきました。
その利休が、晩年に弟子たちへ語ったことは「私がこの世を去り10年もたてば、お茶の本道はすたっていくことでしょう。しかしその時、世間ではかえって茶の湯は盛んとなるに違いありません。もうすでに俗世の遊び事になっている様子は今見る通りです」と、当時のお茶の有り様に末法思想さながらの憂いをいだく利休の辞世の句は、有名な逸話となっています。

現代の日本茶道は、禅院をはじめ千家を筆頭に約50流派の宗家や門弟たちがお茶の奥義を守りながら、次世代へと茶道文化を伝承しています。
さて、現代の茶の湯の風潮は、利休の心にどのように映るのでしょう。
お茶の高みを追い求めた利休の真意は、正しく伝わっているのでしょうか。
真偽のほどが問われるところです。
急ぎ足でお茶の歴史をたどりましたが、改めて利休の思いが心に響きます。
時に、未来を担う若者や海外の人々の間では、古き伝統美を『モダン』という新鮮な眼差しで受け止めて、静かな古典ブームの風を起こしています。
遠い過去の歴史は、未来の希望と地続きなのですね。温故知新を覚えます。