言の葉もあはれおよばぬ撫子の花 ─前編─

2021/09/17

平安時代の美的理念を表現する言葉に、「をかし」というものがあります。これは、風情がある、趣きがある、美しい、というような意味があり、皆様も学生時代に古文でまっさきに覚えたのではないでしょうか。清少納言は、随筆「枕草子」の中でこの「をかし」をランク付けするように紹介しています。「春は曙(あけぼの)」「夏は夜」「秋は夕暮れ」「冬はつとめて(早朝)」と喝破しています。その64段ではこう言っています。

草の花は撫子(なでしこ)。唐(から)のはさら也、大和のもいとめでたし。
撫子1
草の花では撫子が「いとをかし」であるという。撫子といえば、女子サッカーで活躍した選手たちを「なでしこジャパン」と称したことが記憶に新しいのではないでしょうか。その花は、小さいながらも艶(あで)やかさがあり、美しいと感じる以上に可憐という言葉が似つかわしい。そうは言うものの、自然界で生き抜いていくため、他の植物との覇権争いに勝たねばならず、見た目以上の力強さをも持ち合わせている。小柄ながら芯のある力強さと美しさを兼ね揃えた女性を讃えるように、大和撫子(やまとなでしこ)と呼んだりもします。
唐のものは言うまでもないが、日本のものも甲乙つけがたく美しい。さて、問題はここです。いったい何を言いたいのか、ナデシコを調べてみました。しかし、調べるほどに、まるで泥沼に足を突っ込むかのような一筋縄ではゆかない難解さをもっていました。確証がなく、推論の域を出ませんが、なんとなく納得していただけるのではないかと思う「撫子の話」、ご紹介させていただきます。

秋の野に 咲きたる花を 指折(およびお)り かき数うれば 七草(ななくさ)の花  巻8 1537
萩の花 尾花(おばな)葛花(くずばな) 瞿麦(なでしこ)の花 おみなゑし 藤袴(ふじばかま) 朝顔の花  巻8 1538
撫子2
万葉集の中で、山上憶良(やまのうえのおくら)は上記の二首を詠い遺し、秋の七草を見事なまでに定義づけしました。野原を見渡し、美しく咲き誇る花々を指折り数えたならば7種あった、そこに挙げられた花の中に「撫子(なでしこ)」の花があります。

万葉の時代、話し言葉としての日本語はあるものの、書き言葉としてはままならなかったようです。
「ひらがな」は存在せず、知れば知るほどに便利で文明的な漢字が中国から伝来した時、大和朝廷の宮中の賢人は驚愕し、貪欲に取り込んでいくことにしました。宮中での文書は漢文となり、漢詩が主流となるご時世の到来です。
母国語を失うことは国を失うに等しい、そう危機感を感じる賢人は、漢字の音読みを利用して日本語の書き言葉を表現する「万葉仮名」を生み出します。額田王(ぬかたおう)を筆頭に歌聖と称される柿本人麻呂や山上憶良ももちろん、多くの万葉歌人によって万葉集が編纂され、今もその功績が讃えられています。しかし、万葉時代以降は、唐風文化の繚乱(りょうらん)を迎えることとなり、日本語の書き言葉が衰退の一途を辿るばかり…和歌にとっては暗黒時代でした。しかし、平安時代になり「ひらがな」が誕生したことで攻勢に転じます。ここに、話す・書くという日本語が言語として形成されたのです。どの言語もそうですが、まだ言語として大成していない時代にあっては、その物足りなさを物語や詩歌に求めたようです。日本の歴史を振り返ってみても、各時代の激動の時世の勢いが言語に革新を求めてくるようで、多くの素晴らしい作品が生まれています。今は言葉の乱れはあるものの、現代日本語としては画期的な飛躍を遂げた時期であり、その礎(いしづえ)は明治の文豪たちです。そして、日本語は、万葉歌人なくして成し得なかったでしょう。もし、万葉の時代に、中国語をそのまま導入していたならば、日本語は存在していませんでした。ここが、大和の賢人の素晴らしい所だと思います。文化を鵜吞みにせずに、咀嚼(そしゃく)するように良い所だけを取り込もうと考えたのです。理路整然と確立していた漢字を学び得ながら、万葉仮名を駆使し書き綴る。日本にも存在する、もしくは似ているものがあると理解した単語は、そのまま導入するも、古来より連綿と受け継がれてきた日本語の読みをあてました。

「山」や「川」はという象形文字である漢字を使いながら、「やま」「かわ」と読むのです。
先の山上憶良2首目の歌の中で、ナデシコを「瞿麦(くばく)」と漢字をあて、「なでしこ」と読んでいます。あまりにも馴染みのない「瞿麦」という単語は、日常生活ではまず使うこともなく、自分もナデシコをテーマに掲げなければ、知ることもなかったでしょう。瞿麦とはナデシコのことでもあるのですが、美しい花を咲かせる緑美しいナデシコではなく、これを乾燥させて漢方にしたものを意味するというのです。中国で自生しているナデシコは「石竹(せきちく)」と名付けられ、これを漢方薬にしたものが「瞿麦」という。
隋を亡ぼし興った王朝が唐(618~907年)です。遣隋使・遣唐使が持ち帰ったのか、はたまた日唐貿易の中でのことなのか定かではないですが、中国のナデシコ「石竹」が渡来しました。思うに、漢方の「瞿麦」も一緒だった…異国の言葉を何とか理解しようとするなかで、「漢方の瞿麦はこの草だよ」と、美しい花を咲かせる石竹を指さし説明したとすれば、ウィキペディアもなければ辞書もない時代にあり、瞿麦は石竹で、石竹は瞿麦だと思ってしまうもの無理はないものです。古人は、渡来してきた「石竹」に似ている花が日本にも自生していることを知っていた。その花は、知っていたというよりも、秋の七草に詠われるほど可憐に咲き誇るナデシコのこと。馴染みの花であったればこそ、同じ仲間だと気づいたのでしょう。そこで、古人は日本に自生していたものを「大和撫子(やまとなでしこ)」と、中国から渡来したものを「唐撫子(からなでしこ)」と呼び分けることにしたのです。「唐」という字がつくことから、やはり唐王朝の時代に海を渡ってきたのでしょうか。
ここで、予想だにしなかったことが起きます。「石竹」が日本に自生し、「大和撫子」と自然交配していったのです。時が経つほどに増えていく交雑種は、あまりにも美しい花を咲かすこともあり、人々は忌避することなく「常夏(とこなつ)」という名前をつけて愛(いと)おしんだといいます。順を追って花を咲かすために、夏から秋にかけてと花期が長いことから、「常夏」なのだといいます。

日本タンポポと西洋タンポポとの押しつ押されつの領土争いとは違い、自然交配してしまうということは、古来より日本に自生していた「大和撫子」が自然淘汰されてゆき、「常夏」へ変ってしまうことを意味します。今、我々が目にすることのできる「ヤマトナデシコ(※以下、昔の花は大和撫子、今の花はヤマトナデシコと表記させていただきます)」は、花の姿から「常夏」のようなのです。
その花びらは、淡いピンク色に少しばかり紫がかったかのような色合いであり、花弁の付け根は白い。そして、その先端は歯牙状で、細やかに深く切り込みを入れたかのよう。この色のコントラストと花の姿は、柔らかな優しさを感じさせ、撫でたくなるほど可愛いい守ってあげたくなる子供のよう。まさに「撫子」名前にあい相応(ふさわ)しいもの。もともとの「大和撫子」はどんな花なのか?江戸時代中期の歌人であり国学者でもある小沢蘆庵(ろあん)の歌が興味深い。彼は大和撫子をこのように詠っています。

花の色は からくれないに 匂へども みな敷島の 大和なでしこ
撫子3
花が美しく輝いていることを「匂(にほ)ふ」といい、ただ咲いているだけではない、と古語辞典は教えてくれる。それと、崇神(すじん)天皇と欽明(きんめい)天皇の両天皇の宮があったという磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)の「磯城(しき)」と、日本列島が島国であることから、大和の国は「磯城の島」であるといい、それが「敷島」へ。そのため、「敷島の」は「やまと」にかかる枕詞とされています。
「からくれない」色に、鮮やかに咲き誇る花は、全てが日本の大和撫子ではないか!と蘆庵はいう。ポイントはこの「からくれない」という色です。

「韓紅(からくれない)」と漢字で書き、紅花で染めた濃い紅赤色のこと。奈良時代には「紅の八入(やしお)」とも言われています。「一入(ひとしお)」は、生地を染料に一度漬けること。
8回漬けることが「八入」ではあるのですが、八百万の神々というように、「八」には多いという意味も含まれます。「紅の八入」とは、紅の染料に幾度となく漬けることで、最も濃い深みのある紅色に染め上げた色のこと。大和撫子とヤマトナデシコとは、まったく相容れないほどに違う花の色合いです。しかし、古人が石竹と大和撫子とを同じ仲間だと判別できた理油は、特徴的な歯牙状の花びらだった気がします。しかし、石竹に見て取れるような「浅い切れ込み」だったのではないかと。深い歯牙状の花びらであれば、その可愛らしさが、歌人の琴線(きんせん)に触れてもいいものです。かつて、多くの風流人がナデシコの花を庭などに植栽してまで、花咲く時を心待ちにしていたといいます。それほどまでに愛されていたのであれば、「瞿麦」と「石竹」の混同はあれど、「唐撫子」と「大和撫子」、さらに「常夏」の違いを十分に理解していた、頭の中では。しかし、今のように検索して画像がネット上で表示されることもなく、カラー図鑑があるわけでもない時代にあれば、間違いがあってもおかしくはないもの。杜若(かきつばた)、花菖蒲(はなしょうぶ)、菖蒲(あやめ)もまた、あまりにも美しく似ているために混同されてしまうことが多かった。世界史上、類を見ないほどに発展した江戸文化の只中で、小沢蘆庵が間違えたとは考え難(がた)いものです。韓紅の貴(あて)やかな花を匂わせ(咲き誇っ)ているのが、大和撫子であると思いたい。時が経つにつれ、生きてゆくのが難儀になったのか、それとも石竹と交配することで常夏へと姿を変えてしまったのか。それとも、常夏と交配することでヤマトナデシコになっていったのか。専門家ではないために、自分の推論はここまでで、結論はでません。ここから先は、皆様のご想像のご想像にお任せしようと思います。